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【連載小説】奴隷と女神 #8

私はなんと言っていいかわからず黙り込んでしまうと、西田部長は「だから妻のことを話題にされるのは嫌なんです」と言った。

「ごめんなさい」
「いや、松澤さんが悪いわけじゃないです。でもこれからはあまり訊かないでください」
「…わかりました」

とはいえ色々勘ぐってしまう。

学生時代からの知り合いで、偶然再会したこと。
付き合って3ヶ月で結婚したこと。
指輪をしていないこと。
奥様は家にほとんど帰ってこないこと…。

結婚してからはどれくらい経っているんだろう。でも、もう今さら訊くことは出来ない。

そうこうしているうちに鴨ねぎ塩焼きが運ばれてきた。グラスビールは空になっていた。

「何か、飲む?」

お酒のせいか、言葉遣いが少し砕け、胸が疼く。

「西田部長に合わせます」

そう言うと彼はまた笑う。

「そういうところか。自分で考えるの放棄して、基本はついていくだけだって」

1ヶ月ほど前の飲み会の帰りに、電車の中で話したことを彼は憶えていた。私はもちろん覚えているけれど。
照れ笑いすると彼は「日本酒は飲めるの?」と訊いてきた。

「普段飲むことはあまりないですね。でも飲めないことはないと思います」
「赤ちょうちんに行ってもビールかサワーかハイボールってことですか」
「その通り!」

彼は笑って、あまり辛すぎない日本酒を冷酒で一合頼んだ。
すぐに運ばれてきて、彼がお猪口にお酒を注いでくれた。
夏らしくキリッと冷えていて、甘みがあって美味しかった。彼も一口飲んで満足そうに頷いた。

「日本酒お好きなんですか」
「僕は酒は何でも大丈夫」
「そういえばこの前部長さんたちが飲んでいるところへ飛び入り参加した時、西田部長ほとんど飲んでいらっしゃらなかったから、苦手なのかと思っていました」
「…本当によく見てるね」

またしまった、と思った。

「楽しくない会合では飲まないですよ」
「そうなんですか。そしたら今は楽しいってことですか?」

そう言うとまた彼は一瞬瞳の色を変え、すぐに引っ込めた。

そして鴨ねぎを一口頬張ると「すごく美味しいから温かいうちに」と私にも促した。
本当に美味しかった。鴨ってワインのイメージだったけれど、日本酒でも合うのだと思った。

「そういえば西田部長、いつも香水つけてますよね」
「うん。もしかしてスメハラになってる?」
「いえいえ、むしろいい意味で気になって。何ていうやつなんですか?」
「PENHALIGON'Sの…『ENDYMION』っていうやつです」
「…知らないかもしれないです」
「イギリスのかな。お土産でもらったんですけどね」
「そうですか。前からずっと、いい香りだなって思ってたんです」
「そう? なんかおじさんくさい匂いだって言われたことがあって。本当におじさんだからいいのかもしれないですけど」
「…レザーの香りが立つので、そう感じるかもしれません。でもちょっと甘さもあるし…西田部長に合ってるような、ギャップもあるような、不思議な感じがしました」

西田部長は目を細めた。

「香りに詳しいんですね」
「私も香水、好きなんです。普段はつけないですけど」
「どんなのが好きなんですか?」
「イランイランとか、私も少しクセのある匂い好きなんです。今は寝る時にだけ付けてますけど、それはちょっと爽やか系です。寝香水ってちょっと流行っているみたいで」
「寝香水。へぇ。洒落てるんですね」

私はまた想像した。

いつか私の『UN JARDIN SUR LE NILナイルの庭』を、あなたが訪れる時が来ることを。

そしてそんな大胆なことを考える自分に驚いた。私にはどうやら倫理観が欠如しているらしい。
彼の言葉から奥様の存在感・・・を感じられなかったからかもしれない。

「もう1回香水の名前、教えてもらって良いですか? メモりますから」

西田部長から『ENDYMION』の名を教えてもらい、スマホのメモ機能に収めた。

その後はせっかくお蕎麦屋さんだからと、私は既にお腹も膨れていたけれどお蕎麦を一枚ずつ注文した。自分の分を少し西田部長に食べてもらった。

店を出て、少し入ったお酒で私は上機嫌だった。

「すっかりご馳走になってしまってすみません。図々しかったかな」
「確信犯だと思ってましたよ」
「違いますよ! でも一人で食べずに済んで本当に良かったです。一人だと味気ないですもんね」

そこまで言ってハッとする。西田部長は寂しく笑った。

「そうですよ、一人の食事は味気ない」

私は、彼が私の『ナイルの庭』を訪れる日が来るようにと願い、言った。

「良かったらまた一緒にご飯行きませんか」

西田部長は私を見た。

また感じる。一瞬彼の瞳が光るように変わったこと。
しばらく私を見て黙っている。なんと答えようか迷っているのか。

私が下心を持って言っている、ということもバレているかもしれない。

でも、否定されないと根拠なく確信している。

「うん、行きましょう」

彼は答えた。やっぱり。
一歩進んだと感じた。

とは言え、社内の連絡先しか知らず、どうやってご飯に誘えばいいかと悩んだ。

そのうち夏休みが訪れ、私は環と志帆とパリへ旅立った。




#9へつづく

【紹介したお店:笑笑庵】

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