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【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Moment's notice #18

梨沙は迷子になっていた。
どうしたらいいのかわからず、パニックになりそうだった。背中を丸めたまま震えている。

「梨沙、薬、飲んで」
「嫌だ…私…ヤク漬けみたい…やだよ…」

遼太郎の胸にまた、突き刺さるその言葉。

「大丈夫だよ。時々飲む分にはヤク漬けなんかにならないから。でも今は飲んだ方がいい。どこに入ってる?」

既に梨沙の両目から涙が溢れ出し、答えようとしない。
遼太郎は仕方なく彼女の荷物をあさってピルケースを見つけると、自分の飲みかけのペットボトルの水と一緒に渡そうとした。

それでも泣きながら梨沙は拒む。

「どうして泣く? 悲しいのか? 寂しいのか?」
「わかんな…」

梨沙は苦しそうに嗚咽を繰り返す。彼女の複雑で繊細な回路は混乱しショートしてしまいそうだった。

「梨沙、頼むよ、飲んでくれ。そしたら落ち着くから」
「嫌だ。どうしてなの、薬を飲んでばかりいたら、私がどっかに行っちゃいそう。私じゃなくなっちゃいそう。それともパパは、私が消えた方がいいと思ってる? 思ってるよね?」
「梨沙…そんなこと…思っているわけないだろう。何言ってるんだよ…」

遼太郎の胸は張り裂けそうだった。
それを埋めるかのように、梨沙を強く抱き締める。

遼太郎は思う。
梨沙はまだまだ若い。恋なんてこれからたくさんしていくだろう。時が流れればあっさりと『あんなこともあったね』と懐かしむ時が来るものだ。
『お父さんのこと、好きだったこともあるんだよね』と、笑って。

ただ梨沙は…そんな『普通』の人生は歩まないかもしれない。それは今の時点ではわからない。

「梨沙、人生は出会いと別れの繰り返しだ。哀しみを解決してくれるのは時間だけだ。無情なことだが、時が経てばそのつらさはきっと消えるから」

違う、そうじゃない。梨沙は思う。
稜央の事が "いずれ消える" と言うのなら、その裏側に押しやっていた想いがもっと激しく再燃するだけだ。わかってるくせに。

梨沙は遼太郎の手を取ると、自分の首元へ運んだ。彼の大きな手は容易に梨沙の細い首を包んでしまう。

「ねぇパパ、このまま力を込めたら、私、消えること出来るよ。面倒くさいでしょう私なんて。居なくなった方がこの先パパは、何も気を揉まずに生きていけるよ。パパには愛するママがいるし、物分かりの良い息子もいる。私なんか…」

遼太郎は咄嗟に梨沙の頬を叩いた。それが引き金となり、梨沙の感情は爆発した。

「もういや! どうして私は拒まれるの!? だったら私なんか居なくなった方がいい!」

2人は揉み合い、梨沙は力いっぱい腕を伸ばして押し退けようとするが、父親の腕の強さには敵わない。
やがて遼太郎は梨沙の口を塞ぎベッドに押し倒した。押し付ける右手の下で梨沙がもがくと、遼太郎は涙を浮かべた。

「お前が居なくなりたいというのなら、俺も一緒に逝くよ」

その言葉に梨沙は動きを止める。

「お前のこと、どれだけ愛しく思って育ててきたか…。それなのにそんなこと言うのなら、俺も生きている意味はない」

手を離すと梨沙は大きく息を吸い込んだが、もう暴れなかった。ただ瞳からはずっと涙が零れている。

「その代わり、お前の目の前で俺が先に逝くからな。お前はその目で俺が消えていくのを見届けてから、後から来い」
「…嫌…そんなの…」
「なぜ嫌なんだ?」
「だってパパが…そんなの嫌よ…当たり前じゃない」
「この期に及んで我儘言うなよ。お前が死ぬというのならな、それは俺が同じ気持ちになるってことだからな。…いや、子供に先立たれる親の無念は、お前にわかるわけないな」
「…」
「それでも嫌と言うか?」

梨沙は再び嗚咽を上げると言った。

「…つらい。パパを好きになるもの、稜央さんを好きになるのも駄目。もし生まれ変わったら、もっとまともな人生になるかと思って」
「生まれ変わったところでお前はお前だから、同じ人生だ」
「パパ…」

絶望に歪む梨沙。遼太郎は叩いて赤くなったその頬にそっと手をあて、瞳を覗き込む。

「残念か?」
「…わからない…」
「俺の元に生まれてきたこと、悔やむか?」

梨沙の唇が小刻みに震えている。

「でもだからこそ、お前の中には俺がいる。お前は俺から出来ているんだから」
「…」
「それじゃ…不満なのか…梨沙…」

梨沙は考える。
どうだろう…。ママと私、どちらが幸せだろう。パパとは他人のママ。パパとは血のつながった私。身体を、魂を分け合ったパパと、私。

もし私がママの立場だったら…娘に嫉妬していたと思う。子供が産まれたら、私だけのものではなくなってしまう。私だけを見てくれなくなってしまう。そんなの嫌だ。

ママは…そういう気持ちにならなかったのかな。ママはそこまでパパのこと、好きじゃないのかな。でもパパはママのこと…とても愛してる。それが悔しい…悔しかった。

あぁ…もう嫌だ。家族の誰も彼も嫌だ。何もかも嫌だ。
このままパパの中に溶けてしまえたらいいのに。

「梨沙…なんとか言ってくれよ…」
「生まれ変わっても同じ人生になるのなら、私はパパのことを、やっぱり好きになるだけってことだよね。それでそれを拒否られて他の人を見つけても、それもパパは否定する。苦しみは変わらないってことだよね」
「…」

遼太郎は唇を噛み締める。この世で唯一出逢ってはいけなかった2人。
アイツとだけは、二度と逢ってはいけない。
ただ、それだけだ。

「梨沙…わかったよ」
「…何がわかったの」
「もう何も言わない。お前が誰を好きになろうと。ただな、世の中には叶わないこともあることも、よく憶えておけよ」
「パパ…」

稜央とさえ逢わなければいい。それだけなんだ。

「稜央さんのことが叶わなかったら…パパのことを好きなままいてもいいの?」
「…何も言わないと言ったろう」

梨沙は大きなため息をついた。
片想いでも、想えるなら幸せかなのか。

「梨沙、その代わりもう二度と、居なくなりたい、死にたいなんて言わない、考えないと誓うか?」

梨沙は眉間に皺を寄せ、泣き叫びたい気持ちを抑えて言った。

「…誓う…」

梨沙は遼太郎に頭を抱え込まれその胸の中にすっぽりと埋まると、父の激しい鼓動が耳に伝わってきた。

鼓動、熱い身体、血の流れ。
生の証。

細い腕を遼太郎の背に回し、はち切れそうな気持ちを指先に込めた。嗚咽を抑え込むように大きく息を吸い込むと、身体中に大好きな匂いが少しづつ広がっていく。まるで媚薬のように。

「…パパ…そうしたら…子供の頃みたいなキスをして…」
「えっ…」

驚く遼太郎の目に映る梨沙。彼女の瞳は吸い込まれそうな深い闇が広がっている。
やがてそのまぶたが静かに下ろされる。

遼太郎は思う。
梨沙はこんなに細く頼りない身体で、この先も耐えて生きていくのか。
本当に、壊れてバラバラになってしまう、このままでは。

もしくは自らのこの手で、いつか壊してしまうのだろうか。

遼太郎はためらいながらも梨沙の頬に手を添え、白くつるりとした美しい額に唇で触れた。まぶたにも、こめかみにも、通った鼻梁にも、ぷるんと弾力のある愛くるしい頬にも。

幼い頃はそうするとキャッキャとはしゃぐ声を上げたが、今は微かな吐息が聞こえるだけ。

「ここにも」

そう言って梨沙はTatooを指差した。
夏に遼太郎が帰国する3日前の、アパートメントホテルでの最後の夜の事を、2人は思い出していた。

梨沙は黙ったまま、瞳で伝える。

私、ちゃんと感じてる。鼓動が重なっている事を。
私たちは親子でも愛し合う2人でもなくて、もしかしたら一心同体なのかもしれない。
だからもしかしたら、死ぬ時も一緒かもしれない。パパが先に逝くなんて、たぶんあり得ない。

そう考えて梨沙は少し笑った。
変なの。
でも昔から変なんだから、仕方ない。

遼太郎は苦い気持ちで顔を歪めたが、その唇で蝶を捕らえた。
強烈な熱がその一点から梨沙の全身に一気に広がる。

額をぶつけ合うと、ため息が漏れた。お互いの熱い息遣いが部屋の片隅に渦巻く。

今度は梨沙が同じように、震える唇と小さな舌先で触れていく。
遼太郎の古傷に触れると、なぜかひどく安心した。何故こんなに安らかな気持ちになれるんだろう。

そうだ、私を守るために出来た傷だからだ。私のために身体を張ってくれた勲章だから。


真っ暗な空。地平線の境目もわからないほどの闇の中。
そのくうをゆったりと泳ぐ。
見下ろす足元に大地はあるのか、あるいは深い谷なのか。
何も、見えない


冬の長い夜の果てへ向かい漂う。

やがて地上に舞い降り、静寂が訪れた。まるで全ての音を吸い込んでしまう雪の夜のよう。

梨沙が薄く目を開くと、大きな手が見える。その手は自分の手をすっぽりと包んでいる。
子供の頃もこんな風に手を握られて眠っていたことがあったな。

あの頃はパパを独り占めするのが当たり前だった。パパだって私が求めれば、いつでも近くにいてくれた。

手の温もりを感じながら梨沙は眠る遼太郎のまつ毛を見つめ、微かに漏れる寝息を聴いた。

そして胸の中に潜り込んで自分も目を閉じる。
耳で鼓動を感じ、鼻で匂いを感じ、肌で温もりを感じ、自分の内側に閉じ込める。


束の間の穏やかな眠りへと落ちていった。






#19へつづく

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