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【連載小説】あおい みどり #17

このお話はフィクションであり、病状・医師やカウンセラーの対応については物語の進行上、事実と異なる場合があります。予めご了承ください。

~ 翠

突き飛ばした南條の身体がよろめきながら2〜3歩下がった。

何…?
蒼、何なのよ…。こんなこと…もう2回目じゃない…。

「…翠さん?」

ハッとして顔を上げる。南條も呆然と私を見ている。

「先生…蒼がいっつも、本当にすみません」

私は声を震わせながら90度身体を折って頭を下げた。南條は倒れた自転車を起こすが、私は顔を上げられない。

「自転車も…傷付いてたらどうしよう…」
「これは気にしないでください。既に傷だらけですから」

俯いたままの私の視界に南條の靴と自転車の車輪が近づいてくる。ブラウンのスウェード調のスニーカー。

「翠さんは…どうして…」

ハッと顔を上げる。

「何の前触れもなく、急に交代したんです。だからその…びっくりして…」

そうですか、と少し安心したような声。私はまたすぐ俯く。

「先日、初回のカウンセリングがありましたね。上手く行きそうですか?」

こんな状況なのに、そんな話…。震えて黙っていると「翠さん」と呼びかけられる。あの暖かな、優しい声で。

「まだよくわからないですけど…女の人だし、あまり嫌な感じはなかったです。頑張ります…」
「無理してまで頑張らないでくださいね」
「はい…」
「翠さん、顔を上げてください」

言われて恐る恐る南條を見上げ、目が合うと彼は微笑んだ。ただ、診察室で見せていたそれとは別の、なんだろう…患者に向けるそれとは違う笑顔だった。

目まいがする。

「翠さんはハンバーグは好きなんですか?」

唐突に南條は訊いた。

「え、あ…、ハンバーグ?」
「さっき、蒼さんが食べていました。僕に合わせて頼んでいたので」
「あ、あぁ…そうだったんですね…。はい、好きです。私、何でも好きです」
「良かった」

南條は続けて「駅まで送ります」と言って歩き出した。黙ってその後をついて行く。
駅にはすぐ着き、南條はヘルメットを被り自転車に跨ると「じゃあ、また元気な姿、見せてください」と言った。

「えっ…また…って…」

南條はそれ以上は何も言わず笑顔で手を挙げて去っていった。
立ち尽くしたまま、見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。

「…蒼、どうして交代したの」

突然姿を消した蒼は素知らぬ声で答えた。

『翠にも分かち合ってやろうかと思ったんだよ。お前、自分はそんなこと出来ないとか言ってただろ?』
「だからって急に…って言うか、蒼の意思だったってこと…? 交代は蒼の意思でもできるの?」
『いや…冗談。正直頭が真っ白になって…。気が遠くなったような感じでさ…』

私はトボトボと改札を抜け、電車が行ったばかりなのか、ひっそりとしたホームの隅に佇んだ。ポツリとホームの電灯が照らす、身体一つ分避ける、陰の中。

反対のホームの向こうに見える商店街の灯りがぼんやり霞む。冬の乾いた空気が頬を撫でていった。

『翠も今日の南條の話、聞いてたか?』
「…」
『俺、なんか切なさで胸が詰まりそうだった。南條のこと…なんか守ってやりたくて…』
「守るって…何様なの?」
『だって今日の南條の話…、内容からしたらだいぶヤバい話だろ。でも…話してくれた。選んでくれたんだよ、俺を』
「…」
『翠、自分じゃなかったって妬くなよ』
「先生は私が聞いていることもわかっていたと思うよ」
『じゃあ、お前はどう思ったんだよ』

私は深呼吸を一つした。思った事は蒼には言いたくなかった。
黙ったままの私に蒼は続ける。

『俺は南條を守りたい。なんていうか、すごい焦燥感なんだよ。マジで胸が焦がれる。いっぱい抱き締めたい。骨が砕けるくらい』
「やめてよ、変な言い方。って言うかまだやるつもりなの? 先生に迷惑掛けないでよ」
『あながち迷惑じゃなかったんじゃないかって思ってるんだけど。それにお前だって同じような気持ち持ってるくせに』

ホームにアナウンスが響き、電車が滑り込んで来た。車内の明るさに一瞬目が眩む。

『もしも南條が強く抱き締めて返してくれたら、俺もうどうなってもいいかも』

隅の席に座り電車に揺られながらも、蒼の頭の中は夢心地なのか、独り言のように話し続ける。

『南條の腕の中で消えるなら本望かも。後には翠が残る。悪くないだろ』
「消えるつもりなの?」
『わかんないけど。それくらいって事だよ』
「…あんなに消えちゃうのかな、なんて不安がってたくせに。勝手にすれば。その代わり突然途中で交代するのは困る。こっちの心臓が止まりそう」
『今日は本当に意図的じゃないんだ。そう言う意味では俺の意思では交代出来ない。翠の方が強いんだよ』
「どっちにしても、私を巻き込まないでよ」
『嬉しくないのか? お前だってあんなに南條のこと…』

言いかけて蒼は一瞬止まる。

『“私は蒼とは違う” ってか』
「そうよ」
『お前はどうすりゃいいわけ?』
「別に…どうも…」
『へぇー。バッカじゃないの』
「うるさいなぁ」


今日の南條の話を聞いた私は、正直、悲しかった。
愛を忘れたと言っていた南條は、なんて悲しいのだろうと思った。
そして、今の私と同い年の女性と付き合っていた事に、嫉妬した。
南條に愛を忘れさせた、その女性に、そして私が、その女性を思い出させたことに、激しく嫉妬した。
もうこの世にいない人だからこそ深く残り、決して消えることのない痣を南條に残している。

そんな人に適うわけない。

『な、翠。もう1回チャンスくれ。南條を抱き締めたい。抱き締められたい』
「そんな事言って、また気を失うんじゃないの?」
『2回目は大丈夫だ。それにもうすぐクリスマスだよな。勝負するにはいい時期だ。格好のシチュエーションだ』

言われて思い出す。クリスマスか…。
南條はどんなクリスマスを過ごすのだろうか。

そんな事を思いながら、揺れる車内で目を閉じた。


***


数日後。会社帰りに立ち寄ったお店で見かけた、きれいなピーコックブルーのハンカチ。
"海島綿シーアイランドコットン" と言われる、カリブ海にある諸島で取れる、最高級の綿で出来ているという。

ピーコックブルー…。
南條の自転車と同じ色。青いようで緑、緑のようで青。そういう色。
私でもあるし蒼でもある、でも、蒼でも私でもない…。

ハンカチには鮮やかなオレンジ色で縁取りがしてある。アルファベット1文字だけの刺繍サービスもあるという。確か…名前は秋人だから、"A" だ。
そういえば蒼も "A" だ。同じなんて羨ましい。

このハンカチが南條のポケットを彩ったら素敵だな、とふと思った。

私はそれを南條にプレゼントしたくてたまらなくなった。ただのハンカチにしては破格の値段にはなるが、クリスマスだったらちょうどいいだろう。

「イニシャルをお入れして、仕上がりは12/20になります」

店員さんに告げられ、ちょうど良かったと思う。2枚分・・・の料金を支払い、店を後にする。

『翠、南條へのプレゼント買ったのか?』

歩きながら蒼が話しかけてくる。

「そうよ」
『いつ、どうやって渡すんだ』
「…適当に…自転車のハンドルにでも引っ掛けておこうかと」
『会って直接渡すんじゃないのかよ!?』
「恥ずかしい、そんなの」
『バッッッカじゃないの!? しおらしい事やめてくれよ。もうアラサーなんだぞ、お前』
「ほんとうるさい。私は私のやり方でいいでしょ?」
『俺が力を貸してやろう』
「結構!」

その後も蒼は懲りずに話しかけてくる。

『なぁ、俺は南條と約束取りたいんだ。連絡してくれないか、蒼が会いたがってるって』
「…」
『じゃあせめて代わってくれよ。自分でメッセージ送るから』

蒼、そこまでして、どうするのよ。
成就なんか、出来っこないのに。

「…わかった。じゃあ家に帰ったら」
『さんきゅう!』

はぁ、とため息をつく。




~ 蒼

入浴中に交代をした俺は、早速翠のスマホから南條にメールを送った。

こんばんは、蒼です。
もうすぐクリスマスですね。今年はイブが日曜日だから、仕事休みですよね?
一緒に飯、食いに行きませんか?

しばらく返事を待ったが、なかなか来なかった。

「翠、何でLINEとかWhatsappとか交換してないんだよ。メッセージ読んだのか読んでねぇのかわかんねぇだろ?」
『そもそも私はクライアントだったんだから、そんなプライベートな連絡先の交換なんかしないよ』
「今どき、緊急でもLINE使うだろ?」
『先生との緊急は電話なの!』

あ、電話か。そう思い同じ文章をSMSで送ってみる。が、既読は付かない。

『嫌われたんじゃない』
「言うな。縁起でもない」
『あんなことの後だからね』

あんなこと、というのは、ハグしたことだ。

「ビックリしすぎて固まってただけだよ」
『待ち伏せしたり急に抱きついたり、変質者と思っているかも』
「でも、俺に "今まで誰にもすることがなかった重要な話" をしただろ? 絶対俺は特別視されているはずだ」

そこへ、SMSの返信が来た。

「…! 南條から返事来たぞ!」

翠も息を呑む。

蒼さん、メッセージありがとうございます。けれど24日はお会いすることは出来ません。せっかくのお誘いですが、申し訳ないです。

俺は落胆した。翠もどうやら、同じ気持ちだったようだ。

「お前も落ち込んでるのかよ」
『別に…』

俺は気を取り直し、送り返す。

仕事ですか? デートですか?
逆にいつなら良いですか?

するとすぐに返事が来る。

年末に向けて少し忙しくなります。なかなか時間をお取りすることは出来ません。

『絶対無理って言ってるんだよ、先生は』

メッセージを確認して翠が言う。

「こうなったら、やっぱアポ無し突撃しかねぇな」
『ねぇ、本当にやめて! 諭されてるでしょ? 待ち伏せは困るって!先生に迷惑かけないでよ!』
「俺はお前みたいな "猫かぶり" じゃねぇからよ」


もう一度、好きだと言って、抱き締めたい。
そして最初で最後でもいいから、抱き締め返して欲しい。
身体に痣が残るほど、強く。

俺も翠も、憶えていられるように。





#18へつづく

※シーアイランドコットンのハンカチ(本作に登場したカラーは "SIC 108カラー 鉱石の色" です。私も持っています)


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