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廊下あるいは空間をつなぐものーオンライン授業に関する一つの思索ー

 このコロナの状況において私の大学ではワクチンが開発されるまでは通常の対面授業を行わないという方針を示しています。そのため、春の学期ではすべての授業はオンラインで行われました。

 オンラインにすべて移行してしまったことでリアルの教室が実質失われ、それによる交流の欠如が指摘されています。学費の満額での請求が納得いかないと言った声も上がってきています。一方で、私はこの春学期の数週間、非常に満足度の高い学習をすることが出来ました。今までよりも主体的に課題や宿題に取り組み、それのおかげで授業やディスカッションも有意義なものにできました。それが果たしてなぜなのか一つの授業をもとに考えたことを述べていきたいと思います。

 その授業では教育哲学の思想史に関わる学者の代表的な著作を担当を決めて読んでいくという内容でした。PDFで事前に該当部分が皆に配られ事前に読んでくる形式でした。対象とするのはカントやフンボルトからベンヤミン、ベックなどまで多岐にわたっていました。私はこの著作達に慣れていない上すごく難しい文献なのにもかかわらず、対面の授業よりもなぜか主体的に取り組むことができました。個人的には今まで興味がなかったカントに惹かれ、他のみんなの力を貸してもらいながらさらに色々読みたい気持ちになりました。興味をどんどんとそそられこの授業が楽しみになり、もっと勉強したいと思うようになりました。


 おそらく平常通りの教室で取り組んでいたら、ここまでではなかったと思います。この主体性の差はおそらく授業時間中には生じていませんでした。むしろ授業時間外が差を生んでいたかと思います。この授業の時間外においても取り上げた内容が頭の中で居場所を持ち続けおり、授業の「惰性」がそのまま残っていたようでした。お風呂に入りながらベンヤミン。ご飯の後にカントと自然と考えるようになっていました。その「惰性」を助けていたことの一つはリアクションペーパーです。リアクションペーパーは出席のためのものと軽視されがちですが、非常に大きな存在感を持っていました。対面授業よりもリアクションペーパーに取り組む時間が良くも悪くもではありますが長くなり、推敲する時間や論を深める時間が増していたのです。対面授業で行っていた前学期においても翌日提出可とその先生はしていましたが、通学・帰宅の時間があるためどうしても当日提出が望ましく、かける時間は短くなり思考も浅くなりがちでした。それが解決されていました。


 もう一つ授業の惰性を保つものがあります。それはオンラインには「廊下」がないことです。通常、廊下というものは一つの授業から別の授業に向かうときに挟まれるものですが、少し意味を拡張すると、「空間と空間をつなぐもの」、と捉えることもできます。この廊下を通じ私たちの頭は徐々にリフレッシュされ、次の用事や休息の場に合う頭に切り替わり向かっていくのです。言い換えるなら、廊下を歩くことで頭の中の授業の惰性を徐々に弱めていたのです。この、日常生活には通常存在する廊下がオンラインにはありません。それが悪く作用すること(例えばオンライン飲み会の終わりがブツっと切れてしまいどこか物悲しさを感じることなど)もありますが、この授業では良く働いていました。「廊下」がないことで惰性を弱めず、授業の終了後も継続的に取り組むことができたのです。

 とはいっても廊下の欠如には功罪があるかとは思います。最近しばしば話題になっている、学生のバイトと学業と課外活動の膨張による休息の不足などもこの廊下の欠如のせいだと考えられます。オンラインで全てが済むようになりすべてのタスクが直列につながっていきます。日常では必ず物理的に廊下を挟みます。この廊下という緩衝材の有無が対面授業とこのオンライン授業の決定的な差なのかもしれません。私の場合はうまく作用しましたが、世の中ではうまく作用していないことも目立ちます。如何にバランスをとりながらうまく利用していけるかが肝要です。

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