自分の書いた記事は好きで当然だという話
人は皆、カミングアウトしたい生き物である
今日はちょっと、冒頭からカミングアウトしようと思います。
そういえば一昔前にカミングアウトのブームがありましたよね?あれ一体何だったんでしょうか。多分誰かがカミングアウトした人が居て、そこに「実は私も~」って同じ時期にやる人が居て、「このスピードだったら私も言える!」って感じになったんじゃないかと思っています。
多分あの頃ってまだ少数派の人が色々と理解されにくい部分を抱えていて、誰にも言えないけどそれを社会として認めてほしいっていう想いがあったんじゃないかなぁと思うんですよ。
ちなみに恐らくなんですが、元祖カミングアウトって30年前の逸見政孝さんのガン告白だったんじゃないかと勝手に理解しています。あれ以来がんになったら記者会見開く感じになりましたよね。
あ。
超クラシックなネタだと海老名美どり記者会見からの「これは離婚発表か何かか?」と色めきたったら小説家転身発表で全員ズコーってなったということもあったっけなぁ(古い)
そんなわけでちょいと脱線しましたが。
世間体を考えると非常に言いづらいことなのですが。。
私、自分が書いた記事が何より好きなんですよ。
自分に自信は持てなくても、自分で書いた記事は大好きだ
これね、結構言うの勇気要るんですよ。
何でしょうね。
わが国特有の謙遜の文化って結構難しいもので、自分の能力とか目標とか実績とかそういうものを低く低く見せざるを得ないところがあって、本心は違っていても「そんなことないっすよー(えへへ)」って言わないと「ビッグマウス」とか「傲慢」とか言われちゃうんです。
ただ、言葉って恐ろしいもので謙遜していると本気でそう思っちゃうことあるんですよ。結構これが問題だと思っていて、謙遜すればするほど本気で自分の可能性潰しちゃいそうな気がするのでもう、例えば最近はお土産渡すのも「これ美味いんすよー」って言いながら出すようにしています。つまらないもの渡しても仕方ないじゃないですか。ちょっと違うけど。
で話し戻すと、私は自分が書いた記事って結構見返しますね。っていうのも納得して掲載している記事だから楽しいんですよ。
あー良く書けたなぁ。
いい記事だなぁ。
って愛でられる訳です。
ただ、不思議なことにこれって記事を書いた時に限る話なんです。
別に自己評価がバカ高いって訳じゃないし、常にポジティブなタイプの人間でもないです。男女関係になると本当に自信なくなるし、口ごもるし、合コン行ったら隅の方で静かにしてるし、自撮り超下手だし、どうでもいいメシの写真とかSNSにアップできないし。
こういうことって自信が無いとなかなか出来ないし、私なんか普通羞恥心の方が先に来ちゃうんですよ。だけど不思議なことに記事に関してはその限りではなくて。不思議だなぁって思うんです。
でね。
皆さんに正直に手を挙げてほしいんですけど。
私と同じ人、居ますよね…?
確実に、居ますよね…?
自分の記事超好きな人、何度も見返す人、居ますよね…?
大丈夫ですよ。
このスピードなら告白できますから。
…あ。
でもまだ、そうは言えないか。
自分で書いていることなのだから、誰よりも共感するに決まっている
いやね、これって全然恥ずかしいことじゃない筈なんですよ。
ちょっと考えたら。
まず、人に記事を公開している時点である程度変なものは書いていないってことじゃないですか。もし恥ずかしかったら非公開にするでしょうし、自分だけの日記なんかにしますよね。
だけど、今って自分の書いたものを公開することもオープンに出来る文化がある訳で、自信が無いものを遜って「出させていただきます」っていうスタンスでなくていい筈なんですよ。
自信があるから公開しているという前提の話もそうなんですけど、ここからは更に核心に迫ります。
自分が書いたものって、他人が書いたものよりも共感するに決まってるんですよ。当たり前の話で。
だって、自分が共感することしか書きようが無いじゃないですか。
たとえマツコ・デラックスみたいなオピニオンリーダーみたいな人、上手く人の心理とか社会問題にズバッと切り込める人って世の中にはごく少数存在していますけど、いつも彼らって私の思っていることを代弁できるわけではないです。
それはあくまでもその人の意見なんです。私と考えていることは違う部分が存在するんですよ。自分の持つ偏見のコレクションなんて代弁しようが無いんですから。
つまりどんなオピニオンリーダーよりも自分の想いを代弁できる存在っていうのは、自分自身に他ならない訳です。
そりゃ書くことに関する技量の問題もあるし、想いをストレートに言語化するっていうのもセンスが要るし、なかなか彼らのようにズバッと切り込むことは出来ないですけど、それでも自分の想いに最も近づいて文章化できるのは自分なんですよ。
記事って自分の分身みたいなもんですから。
自分の一部を評価されなかったら寂しいに決まってますよ。
ここまで分かれば、もう何も怖くないです。自分の記事なんて、好きで当たり前なんです。それでも文句言う奴がいたらつまらないものを無理やり口にねじ込んで食わせておけばいいですから。
自分で作ったものを好きになるのは、記事に限ったことではない
これって多分、記事に限らない話なんです。
音楽だって、演劇だって、何かを創作するということに関してはやはり自分が作ったものを自分が好きで当たり前なんですよね。
理由は同じです。
自分の作ったものは世界で唯一自分の嗜好を大きく反映させることが可能だからです。そりゃあ作品でも演技でも何でもいいんですけど自分の作るモノに対して評価が高いに決まってます。
ヘタクソがヘタなものしか作れないことが分かったらすぐやめちゃいますよ。辞めない時点でもう自分が作ったものに対して誇りも愛着もある。当然のことですよ。
だから、noteの記事は勿論なんですけど自分が作ったものに対してもっとプライドを持っていいと思います。対外的には謙遜するのは自由ですけどね。
ただね。
スキが伸びなかったりコメントが貰えなかったりすると「なんでだろう」って落ち込むわけです。そりゃそうですよ。自分がいいと思って書いた記事が全然反応無いんですから。
自分が作ったものに対する誇りがあることは自然なんですけど、あとは周りがどう認めてくれるか?ということが大事で、プライドがあっても周囲の評価が伴わない中で続けるってなかなか厳しいんですよね。
Youtubeの配信でたまにいます。
もう1年くらい続けてるのに、視聴1桁みたいな。
よく折れずに続けられるなぁと思います。
自分が良いと思うものや共感するものを他人も評価してくれるとは限らなくて、ただ他人が評価しないからといってその価値観が全く悪いということではないと思うんですね。単にそれが伝わりにくいという話であって。
つまり世の中で評価されるものって、多くの人に通じるものだと思うんですね。
常にどこかで「多くの人に通じるか」って部分との格闘があって、ある程度の規模から抜け出せないと苦しくなってくる。そうなると作ること自体を止めるか、その規模でもやり続けるかという判断が必要になってくる、と。これに関しては別の葛藤が生じますね。
というわけで。
今日皆さんにお話ししたいのは、自分が作ったものは記事に限らず人に見せられるものであれば好きで当然だということでお時間となりました。
おとといの記事は5~6回くらい読み返したポロロッカ西尾にお気軽にコメントお待ちしております!
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