何を「風化させてはいけない」のか理解することが大事。
もう震災から13年も経つんですね。
この季節になるとあの日自分はこんなことをしていたという話をされる方も多くて、私自身かなり過酷な目に遭ったからつい共有したくなります。
まぁその時の話はまた別の機会にするとして
阪神大震災の「あの日」を迎えても結構話題に出ることがありまして。
風化させてはいけない
っていう言葉なんです。
結構最近これはよく考えていることなんですけど「風化させてはいけない」っていうのはどういう問題を受けてのことなのかなぁって思うんですよね。
本当によく聞くことだし、これを過去に被災された方に言われるとああ、何か問題だと感じられているんだ、まだ終わっていないんだ、そんな風に思うんですよ。
問題があれば解決しなくちゃいけないですよ。
そして、それを聞いた私たちも向き合わなきゃいけない。
でも。
何がどう問題なのか分かっているようでわかっていない。
例えば、阪神大震災の日にも「風化させてはいけない」っておっしゃられている方が報じられていました。
もう30年経過していますし、町並みは戻っているどころか、新しい町にさえなっているんです。
経済的な部分についてももう新しい生活が始まってから相当な年月も経っています。
だから「風化させてはいけない」っていうのは必ずしも震災の打撃が地域や個人に残っているという意味ではないこともあると思うんですね。
でも「風化させてはいけない」とおっしゃられる方が居る。
どこに問題があるのか。
それは人々の防災意識なのか。
一見復興しているように見えて、まだインフラも個人も立ち直っていない部分があるのか。
そこが大事だと思うんです。
悲しい記憶を風化させてはいけないということだとすると、それは良し悪しがあると思っています。
能登地震の時もそうだったんですけど、悲しい報道、辛い場面を繰り返し見ることっていうのは結構しんどいことでもあります。
勿論苦しむ人が居る、支援が必要ってことは分かりますし、流さなければならない時もあります。
しかし、それを見られる状況の時とそうではない時もあります。
だから、悲しみを風化させてはいけないということがメインであれば、判断は必要じゃないかと思うんですね。
変な話ですけど伊勢湾台風から60年とかやらないですし、悲しみの記憶を1年に1度報じていたら悲しいことだらけになってしまうというのも事実です。
見ている側が病んでしまうようなことならば、風化させた方がいいことだってあるのかもしれません。
人は悲しみを忘れることによって前に向かって歩ける、みたいなことを確か昔瀬戸内寂聴さんか誰かが言っていたと思います。寂聴さんだったと思うけど違うかな?黒柳徹子さん相手に喋っていたのは確かです。
これはある意味「風化させてはいけない」っていうことと逆のことかもしれないと思うんですね。
繰り返しにはなりますが、大事なのは「風化させてはいけない」というのが何を意味しているのか、何が問題なのかという点です。
案外こういう分かったようで、人によって理解が異なる言葉っていうのはあると思います。
災害など、被害に遭われた方には寄り添わないといけないのは確かです。実際に経験していない立場からすると何が不足しているのか、まだ満たされないのか、わからないからです。
逆に分からない立場だとその言葉を自分の見聞きしたものでフィルターを掛けて理解する傾向にあります。しかしそのフィルターが適切なのかどうなのかは誰も確認していないんです。
分かった気になっているところを一度踏みこんで、正しく理解するために話を聞き、考える。
それって案外できていないことだと思うんですよね。
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