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誰しも内に秘めているカルト

カルト宗教に何故のめりこむのか、という話でたしかジャーナリストの江川さん(違ってたらごめんなさい)が前提はボロボロでもそのあとの理屈が巧妙だから人はのめり込んでいく、というようなことを書いていた。そしてその滅茶苦茶な前提を受け入れさせるのは小さなコミュニティでの“空気“だ。閉鎖的なコミュニティに入るとどんどんローカルルールに足を取られて周りの感覚とは隔絶した、ズレた考えになっていく。ツイッターの意見と職場のおっさん達の意見が真正面から食い違うのもコミュニティが閉まっているからかもしれない。

これ、個々人にも広く当てはまっている気がする。

人間ってボロボロになったときはこれ(=一種の洗脳状態)に近い状態になる気がするからである。前提に自分の命が大事じゃないと考えてしまうといくらでも自殺が正当化されてしまう。周りの空気がそんな心持ちを作ってしまう。一番鬱みたいになったときは、横断歩道でどれだけ車が近づいても平気で歩いていた。どうぞ引いてください、私は悪くないから。こんな理屈が平気で頭の中で生まれてしまう。

だから前提が苦しい、死にたいって人にどれだけ優しい言葉をかけるより周りが環境を変えるように努力するしかない気がする。

そんなことをあるインタビュー記事を読んで考えていた。

記事の最後のほうにあったフレーズに痺れた

“人間とは、最後に死ぬオチが決まっている大喜利“

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