190108_短編

海に歌う鬼

ある満月の日の夜、僕を乗せた小舟は小さな岩礁にのりあげていた。
僕は親と喧嘩し、躍起になって舟を沖に出したが、岩にぶつかったせいで舟に穴が空いてしまい、乗ることができず、また親に助けを求めるのも憚られ、独りぼっちで夜を過ごしていた。
その日は満月で、どんどんと海の水位が上がって行く。僕は狼狽えていると、自分のいる場所からすぐ裏手に誰かの気配を感じた。
ポロロロンと艶やかな弦楽器の音も聴こえてきた。
好奇心もあったが何よりも心細かった僕は、音のした方をつい覗き見た。
そこには女性がいた。立派な角を頭から生やし、民族衣装で身を包み、肌はとても滑らかそうだ。大きな見たことのない弦楽器を持っている。
人のようだが、およそ人からは大きくかけ離れた雰囲気をしていた。
鬼だ。初めて見た。
僕は生唾を飲み込む事すらせず、音を立てないよう慎重にそこに座り込んだ。やがて鬼が語り出す。
「いと尊きお方に捧げます。海殿におわすお方に捧げます。海神様、龍神様、どうぞご拝聴願います」
やがて鬼は歌い出した。優しい歌声が弦の音にのり、潮風に吸われていく。知らない国の言葉の歌だが、どこか懐かしい旋律だった。僕は終わりまで姿勢を崩さず、その歌に聞き惚れていた。
歌が終わり、辺りは静かな波の音だけになった。僕はまた心細くなり鬼の姿を見つけようとした。
しかしそこに鬼はいなかった。僕は立ち上がり辺りを見回した。すると、自分のすぐ後ろに鬼が立っているのを発見した。
「こんな時間に人間がここにいるとはね。あの歌は人間のためのものじゃないよ。神様のための歌なんだ。わかったらさっさと帰んな。歌の邪魔をしなかったお礼に、見逃してやっからさ」
困ってしまった僕は正直に舟が壊れてしまって帰れないことを伝えた。
そう伝えると鬼は呆れて、僕の舟の元へ行った。
「舟を直すことはできないけど、運ぶことはできる」そういって鬼は親指と人差し指で輪っかを作り、そこに息を吹きかけた。
するとそこからみるみるうちに泡が湧き出てきた。
泡は舟を包み、僕を乗せた舟を浮かせてくれた。
鬼も舟にのり、海岸に向かって舟を動かしてくれた。
僕はお礼を言った。
「どうってことないよ。もう夜中に沖に出るのはこれっきりにしとくんだね」
鬼は僕を村に帰すと、さっさと海へと戻って行った。
僕は鬼の姿が見えなくなるまでいつまでも海を見ていた。

次の満月の夜。僕はとっくの昔に親と仲直りしていたが、何かに突き動かされたかのようにまた夜に舟を出した。
前よりも大きな満月の夜。月明りを浴びる岩礁の影に隠れていると、あの弦の音が聴こえてきた。
彼女だ!
僕はまた歌を聴いていた。波の音と弦の音が混じり、心を穏やかにさせてくれる。
歌が終わった時、思わず僕は拍手をしてしまった。
鬼は拍手の音で僕に気づき、呆れてしまった。
「厄介な小僧っこやね」
困らせてしまってるだろうか。それでも僕はここから離れたくない思いで会話を続けようとした。
貴方の名前が知りたい、と質問をしてみた。
「あたしはゾーアだよ。さぁ、名前は教えたから帰んな」
名前を教えてくれたことに僕は嬉しくなって、またこれからも歌を聴きに来ると伝えた。
「だめ。危険だから。海の怖さはよく知っているはずだよ」
それでも聴きたい。そういうと、ゾーアは服の裾から小さな貝殻を取り出した。
「仕方ない。ほら。この貝を持って行きな。次の満月の夜にこの貝を水につけて耳をすますと、私の歌が届くからさ」
僕は元気よくお礼を言った。
「お礼が言えるのはいいことさね」
ゾーアにまた舟を運んでもらい、僕は一人で家に帰った。時々振り返ると、ゾーアが手を振ってくれているのが見えた。

その次の満月の晩、僕は期待に胸を膨らませて貝殻を海から汲んできた水の入った桶の中に入れた。楽しみで、鼻の穴を膨らませて待っていた。
やがて大人たちが寝静まったころ、あの歌が聴こえてきた。
指が弦を弾く音。透き通った指が楽器の上を走る情景を想う。岩礁に打ち付ける波。さざ波は海のコーラス。
ゾーアの歌声。子守唄のようで優しい響き。
僕は桶に耳を寄せて聴き入っていた。
やがて歌が終わった頃、僕は拍手しようとしたが、そこで気づいてしまった。ゾーアは自分の目の前にいなかったのだ。
寂しくなった僕は水の中に顔をつけた。目を開くと、そこはあの岩礁の海面で、ゾーアが目の前で楽器の手入れをしていた。
ゾーアは僕の視線に気づくと、「危ないからすぐ戻りな」と注意をしてくれた。
息が続かなくなった僕は桶から顔を上げると、深呼吸をしてからもう一度拍手をした。

「なに。あんたまた来たの....。せっかく貝をあげたんに。こんばんはね」
そう。我慢できなくなった僕は貝を宝箱にしまって、また満月の夜に舟をこっそり出してこの岩礁にやってきたのだった。
すっかり舟の操縦が上手くなったから簡単に来れる。
直接ゾーアの歌が聴きたかったから来てしまったと、僕は笑顔で応えた。
「厄介な小僧っこさね。もはや隠れる事すらやめたとは。舐められたもんだよ」
ゾーアは相変わらずの口調でしたが、表情は心なしか嬉しそうに見えた。
歌の邪魔はしないので、聴かせてください。僕は素直に答えた。
「しょうがない。まぁ今日も波は穏やかだからね」
そう言うとゾーアは楽器に指をかけ、演奏を始めた。

いくつ目かの満月の夜。
僕はやっぱり岩礁に向かう。
親に満月の夜に舟を出していることがバレて怒られたこともあったが、そんなの知ったこっちゃない。
何故だと問い詰められたりもしたが、ゾーアのことだけは誰にも言っていない。
鬼の存在が人に知られると厄介だし、ゾーアに迷惑かけたくない。それに、二人だけというのがとてもいいのだ。僕は村の誰も知らない秘密を持つことに対して勝手にわくわくしていた。
舟も本当に上手くなった。泳ぐのだって同い年の子の中では一番上手だ。岩礁にも軽々来れる。ゾーアのおかげだ。これからも時間の許されるかぎりここに来るつもりだと思っていたのに。
その日、演奏の終わりにゾーアは僕に言った。
「今夜が最後だよ。あたしは別の島の海へ行くからね。」
僕は突然の別れの言葉にとても驚いた。僕は本当に毎月会える日を楽しみにしていたのに。
「だからだよ。結局、鬼と人間じゃ時間の感覚も違うもんだからサ。まだ取り返しがつく筈だよ。あんたは、人間の時間を生きなさい。」
僕はゾーアが何を言っているのか理解できなかった。人間の時間と鬼の時間ってなんだろうか。時間なんて誰にとっても同じはず。
「やれやれ。歩いて帰ったらついて来ちまいそうだね。あんた」
強い風が吹いて、大きな波が二人を優しく包んだ。僕は逸る気持ちで自分の濡れた目元を手で払い、急いで目を開けた。そこにゾーアはいなかった。

あの満月の夜から20年ほどの月日が経った頃の事。
俺もすっかり成長した。身長も伸びて、すっかり顔も大人だ。
俺は嫁をとり、やがて赤ん坊もできて父親になった。
俺はあれからも、満月になると潮風に乗って歌声がここまで届いてくれないだろうか、などと思いを馳せることがある。
異国の歌詞はもう覚えていない。
ある日の満月の夜に、子供がなかなか寝付いてくれなくて困っていた。
揺りかごも鈴の音の効力も空しく、子供は全く眠気から覚めていた。
すると何処からともなく、風にのって歌声が聴こえてきた。歌を聴いた子供はだんだんと気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
俺は子供と嫁を置いて、急いで岩礁に舟を向かわせたが、ゾーアの姿は見えなかった。
代わりにそこには真珠のように綺麗な巻貝が置いてあった。
耳を寄せると、貝から声が聞こえてきた。
「立派になったね」
最後に会ったときから何一つ変わらない優しい声だった。

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