見出し画像

「地球を押して歩け」─流されない男の30年

東京五輪、競歩男子20キロで池田向希が銀メダルを、一昨年の世界陸上で優勝した山西利和が銅メダルを獲得した。

このニュースで競歩という競技に注目した人、日本の強さを初めて知った人も少なくないだろう。しかし、日本が世界の強豪国と金メダルを争えるまでになったのは、つい最近のことだ。

五輪で初の入賞者が出たのが08年の北京、前回16年のリオで初めて銅メダルを手にした。今回の2つのメダルは、多くの関係者の努力と試行錯誤の結晶だと言っていいだろう。

そのうちの一人、日本競歩を陰で支えた男を紹介したい。彼が提唱する「地球を押して歩け」とは一体どういうことなのか。

理想の「歩型(ほけい)」を追い求めて

その瞬間を彼はテレビで見ていた。東京・北区の国立スポーツ科学センター。トップアスリートが日々鍛錬に汗を流すナショナルトレーニングセンターに隣接する彼の職場だ。現地でレースを見ない五輪は、00年のシドニー以来のことだった。

三浦康二51歳。「効率の良い歩き方」の研究に人生の大半を捧げてきた。

走る競技におけるランニングフォーム、これを競歩では「歩型(ほけい)」と呼ぶ。どうすれば体力を無駄にしないで速く歩くことができるのか。三浦は、その研究分野での日本の第一人者だ。

画像3

なぜ三浦は競歩の魅力に取りつかれたのか。その足跡をたどってみよう。

三浦が競歩を本格的に始めたのは、京都大学1回生の夏頃からだ。

「高校時代に冷やかし半分で出たレースが面白かったので、大学でやってみたいなと思っていた」

それほど重たい動機はなかったと三浦は振り返る。しかし、ほどなくその世界にのめり込むようになった。

「2回生になったら記録が伸びて、全国レベルの大会にも出られた。その後、日本選手権で8位にも入った。今にして思えば、競技人口が少ない恩恵を受けていたんだけど、これはいいなと」

競技人口の少ないマイナー競技。競歩に付いて回るイメージだ。だが、マイナーだからこそ、三浦は自らが生きる可能性を見いだしていた。

大学を卒業すると、旭化成に入り、故郷の宮崎県に拠点を置く名門の陸上部に所属した。選手としてではなく一般就職だったが、会社側に頼み込んで競技継続の道を確保した。

しかし、度重なる故障で思うような成績を上げられなかった。ワールドカップ競歩50キロに日本代表として出場するも11キロで失格。96年、アトランタ五輪選考会で惨敗したのを機に、会社からは選手としてのクビが言い渡された。

会社にとどまる選択肢もあった。だが、三浦は競歩から離れられなかった。安定した収入を投げ打ち、学生に戻ることを決断する。

旭化成を退職し、筑波大学の大学院に進学した。バイオメカニクスという動作の分析手法や運動生理学を学びながら、理想的な歩型を追い求めるようになった。

この時、三浦には競歩という競技にまだ未開の地が広がっていることが見えていたのかもしれない。かくして、文学部卒の技術研究者が誕生した。

マイナー競技だから開拓の余地がある

競歩の魅力について、三浦はこう解説する。

「意図しないとできない動きなので、工夫すればするほど成果が出るのが面白い」

人間にとって、歩くとは最も基本的な動作のはずだが、意図しない動作とはどういうことか?

競歩では、2つの大きなルールがある。

1つは、両足が同時に地面から離れてはいけないこと。もう1つは着地した前足が地面と垂直になるまで膝を曲げてはいけないことだ。

前者は理解しやすいが、後者は難しい。人間は、普通に歩けば、膝を曲げて着地し、そのクッションを使って前に進む。ところが、競歩の場合、前足の付け根から足先までを一本の棒のように着地して進む。意図しないとできないというポイントはここにある。

三浦を研究に駆り立てたのは、何だったのか。
それは伝統的な競歩の指導に対する違和感だったという。

「従来はストライドを伸ばすことに重きが置かれていた。横から見た時に、Yの字を逆さにしたような形がはっきり見えるように歩きなさいと。前に大きく足を振り出すため、後ろに大きく蹴れ、大きく押せとよく言われていた。でも、これだとピッチが上がらない。現役時代からしっくりこなかった」

マイナー競技ゆえに、参考にできる文献も少なかったという。だが、マイナーを逆手にとるのは性に合っている。

「逆に言えば、何を書いても業績になる状態だった」という。

高校や大学の選手を指導する機会も増えていった。研究と実習を繰り返しながら未開の地を進む歩みが続いた。

クロスカントリースキーに導かれた理論

転機が訪れたのは03年。大学院に籍を残したまま、青森県スポーツ科学センターに就職したことだ。ここでの業務は、競歩に限らない、あらゆるスポーツの動作分析だった。

「水泳、スキー、スケート、フェンシング、アーチェリー。あっ、ボートもやった。とにかくいろんなスポーツの動作を分析した」

三浦にとって、クロスカントリースキーとの出会いは幸運だった。五輪代表も輩出するチームの手伝いをするうち、重要な発見があったという。

「平地をスキーで滑る動作を見ていると、後ろに蹴ることによって前に進んでいるように思えるが、実は、真っ直ぐ下をきちんと押している時に最も前に進むことがわかった。推進力を得ているのは、一見そうは見えない局面、足で体をしっかり支えている時だった」

この発見は、三浦の背中を押した。もともとクロスカントリースキーの選手の中には、競歩もやるという人がいて、共通点があると言われていた。何より、ふだん三浦が感じていた方向性と合致していた。

三浦は、競歩にフィードバックしていく。

「体を支える足をきちんと支えないと、後ろ足を前に速く振り出すことができない」
「体を支えるためにお尻や太ももにきちんと力が入っていると、前足が接地した時の減速が少ない」
「直立している時にどれだけ力を入れられるかが加速の度合いを決める」

そして、「真っ直ぐ下に地面を押しつぶすくらい強く足を下ろせ」と提言したのだ。

画像1

04年のアテネ五輪、05年のヘルシンキ世界陸上では、固定カメラ2台で参加選手の映像収集に務めた。映像を分析した結果、自らの理論が実証されたとの確信を得るようになったという。

専門誌に寄稿する機会が増え、07年には博士論文にまとめた。

画像4

すでに、日本陸連の科学委員や競歩委員にもなっていた。教え子の高校生からは、インターハイと国体の優勝者も出た。

三浦の歩みは、その後の日本競歩の躍進を暗示しているようだった。

世界で戦える歩型を

「効率的な歩型の確立に向けて、彼が日本で中心的な役割を担ったのは間違いない。日本だけでなく、世界的な視点から見てもそうじゃないですか」

こう三浦を評価するのは、小坂忠広だ。小坂は、ソウル・バルセロナ・アトランタと3大会連続で五輪に競歩選手として出場。現役引退後も日本代表のコーチを長く務めた。

小坂は、決して世界の強豪国とは言えなかった日本の競歩が生まれ変わっていく契機として、ある出来事を挙げた。

03年、パリの世界陸上で日本選手のほとんどが歩型違反で失格となってしまったことだ。

「大変なショックだった。歩型技術を確立しないと日本の競歩の未来はないよ、と言われていた」

従来のやり方を見直そう。もっと海外に学ぼう。そこで活躍したのが三浦だったと証言する。

「彼は語学力もあるし、コミュニケーション能力も高い。海外の権威ある著名な人たちとすぐに知り合いになって、いろいろなトレーニング方法を入手して国内に還元してくれた。私もだいぶお願いごとをした。彼自身、メールのやりとりも含めてかなりの時間を使っていたと思う」

特に、三浦が食い込んでいったのが世界で最も科学的な研究が進んでいたとされるイタリアだったという。小坂が振り返る。

「私がジュニア世代の育成を担当していた03年、彼に相談して、イタリアの競歩学校で初めて本格的な合宿を行うことができた。国際大会での審判の判定の傾向に関する情報などもイタリアで築いた人脈から得てくれていた」

孤高の学生選手時代から30年を経て

三浦のことを書こうと思ったのには理由がある。筆者である私と三浦は、大学陸上部の同期という関係だ。30年以上の友人である。

しかし、競歩について三浦から詳しく話を聞こうとした経験がなかった。

陸上部でただ一人の競歩選手だった三浦は、指導者や練習相手を求めて独自の行動をとることが多かった。

また、インカレや他大学との交流戦において競歩は正式種目に採用されていなかったため、部員の間で競歩が話題になることは稀だった。

私は三浦の好成績を特別に祝ったり、レースを応援するためわざわざ遠出した記憶はない。求められたこともなかったように思う。

三浦が競歩の専門用語や一流選手の動向をマシンガンのように話すスピードと内容についていけず、当時は会話がかみ合わなかった。

「変わったやつだな」と思う時もあったが、今にして思えば、三浦が一歩先を歩いていたのだ。

画像2

同期の一人は、陸上競技場でのこんな光景が印象に残っている。次々と多くの種目が行われる記録会で、1万メートル競歩のレースが始まった。ところが、出場選手は三浦のみ。拍手や歓声もない静寂のトラックを三浦は黙々と25周、歩き続けた。

当時、三浦はこうした状況をどう感じていたのか。

「そりゃ、さみしいとか、もっと理解してほしいという気持ちはあった。でも、だからこそ、成績を上げて認知度を高めたいと頑張れた面もある。競歩の選手って、そういう人が多いんだ」

その後も三浦が競歩の世界で活躍していることは、陸上部の同期から回ってくる新聞記事や三浦が専門家として出演するテレビ番組で見聞きしていた。

今回、五輪を前にした慌ただしい中、三浦からじっくり話を聞いた。初めてのことだった。

陸上部でいつも「別枠」のようなポジションにいた男は、周囲の関心や評価に流されることなく、ひたむきに一つの道を歩いていた。

「真っ直ぐ下に足を下ろせ」

三浦が確立した効率の良い歩型の説明を聞いて、私は尋ねた。

「地球を押して歩け。そんなイメージか」

「そうそう。そういうことだ」

三浦は笑いながら答えた。

知り合って30年余り。競歩を話題に会話が弾んだことがとても新鮮だった。

銅メダルを獲得した山西も京都大学陸上部の出身だ。三浦と私の25年後輩ということになる。

三浦が歩んだ道を、続く世代が着実に踏み固め、日本の競歩は今や世界の頂点を狙えるレベルにまで登り詰めた。

五輪の興奮の中で

目覚ましい躍進によって、競歩を取り巻く環境は変わってきたのだろうか。

三浦はこう答えた。

「以前はキワモノみたいな見られ方もしたが、最近は、どんな人たちがやっているんだろう、不思議で興味津々みたいな感じになってはいる」

ただ、マイナーからメジャーへの脱皮もあるのではないかと水を向けると、かぶりを振った。

「それはないよ。競技の特殊性から言って、突然、敷居が下がったり、間口が広がったりすることはない。100メートルやマラソンには逆立ちしたって勝てないよ」

そして、少し声を落として、こんな不安を口にした。

「世界的に見れば、競技人口は減り、先細り感が出ている。五輪種目に残れるかどうかの議論もここ10年以上ずっと起きている。実際に、次回のパリ大会からは個人種目の50キロはなくなり、35キロの男女団体種目に替わることが決まっている。この先、どうなるか、よくわからない。頑張らなければいけないが、正直どうやって頑張ればいいのかわからない」

五輪の興奮は、やがて冷める。

私も五輪がなければ、三浦に話を聞こうと思わなかったかもしれない。

だが、三浦は、浮かれることも、流されることもなく、黙々と歩型を追い求めるのだろう。

大学時代、一人で歩いていた三浦は、その後も歩き続ける中で仲間を得た。仲間とともに地面にしっかりと足をつけ、歩みを止めることはなかった。競歩というマイナー競技に魅せられ、人生を捧げてきた。

地球を押して歩く男、三浦康二。この続きをまた書きたい。

(写真、画像は三浦康二提供。文中、敬称は略させていただきました)

この記事が参加している募集

#部活の思い出

5,462件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?