勘違い、懐かしさ、遊び。
ガイドの方がついてくださる旅を最後にしたのは、いつ頃だっただろうか。おぼろげな記憶をたどっても思い出せない…というくらい、自由気ままで、時間を忘れてしまうくらい、あてのない旅が私は好きです。
高木正勝さん(映像作家・音楽家)のエッセイ集『こといづ』を読んでいて高木さんがアフリカのエチオピアに撮影旅行をなさった時のことが書かれている。「ああ…そうなんだよなぁ…そうそうそう…」と、言葉の一つひとつが胸に響いて、なんだか涙腺がゆるんでしまいました。
旅の醍醐味は「勘違い」にある。そうなんですよね、そうなんです。何度も何度も響いています。「壁の染みが笑っている人に見える」瞬間の高木さんの気持ちが、なんだか分かる気がするんです。
たとえば、神社や仏閣の柱や梁に浮かんでいる木目が、ふとした瞬間に川の流れのように見えて、その悠々とした川のイメージが、建物に積み重なってきた歴史、悠久の時の流れに深みを与えてくれるような気がしたり。それも勘違いかもしれません。
勘違いした時の気持ちというのは「驚き」や「懐かしさ」そして「遊び心」が混ざりあったような、温かみがありながつつスッキリと爽やかな、そんな気持ちです。
最近、ヨガをしていて、今まで意識が向いてなかった下腹部の内側に意識が向くようになりました。ヨガには「バンダ」という考え方があり、「丹田」の概念にも通じるようです。
位置的にはおへその下で、その場所の少し内側の部分。この部分がなぜだか自分でも分からないのですが、ヨガの後の屍のポーズ(シャヴァアーサナ)に取り組んでいるときに、ふと微弱な鼓動が感じられたのです。
緊張をほどくことで、微弱な感覚に気づくことができる。これは勘違いにも通じるように思います。懐かしさや遊び心を感じられる時というのは、自分の身体と心がほどけている。
そういう時に、目にしたり、聴こえてきたり、香ったり、味わったり、肌でふれたりしている世界の向こう側から、声なき声の語りかけが届いてくる。
日本の「お吸い物」のイメージが重なるのですが、お吸い物は飲み終える頃にほど良い味わいになるように作るそうです。舌が味に慣れていないところから出会いが始まり、少しずつ味を探ってゆく。その、じっくりと重なってゆく「時間」がお吸い物の味わいの奥深さにあるのですね。
と、今回のNoteも高木さんの言葉や、私の身近な経験を即興的にまぜあわせながら流れるままに書いているのですが、やっぱり懐かしさや遊びの感覚があります。「よし、これを書こう!」と思っても書けなくて、浮かんだままをただただ落とし込んだ「コラージュ」というか。そのような感じです。
人類学者のクロード=レヴィ・ストロースが提唱した「ブリコラージュ」という概念があります。
「なんだか分からないけれど、何かの役に立ちそうな気がする」という直感に従って、道端で出会った物をひろって集めておく。そこには計画性は存在しないのですが、いざ実際に何かの局面が訪れた際に本来の用途とは関係なく、その場その場で即興的に当面の必要性に役立つ道具を作ってみる。
ブリコラージュしながらコラージュする。こうした言葉遊びも好きなんですよね。遊びの感覚を大切にしてゆきたい、今日この頃です。
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