距離ゼロの関係性。手の倫理。
今日は『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「まなざしの倫理/手の倫理」を読みました。
本節のキーワードは「まなざし」です。まなざしとは「意識を向ける」ことに他なりません。
自分の行為に没入していたとしても、他者のまなざしに気がつくと、途端に「自分の行いは恥ずかしくないだろうか?」という気持ちが芽生えてくる。
「主観 - 他者と私との根本的な結びつきは、『他者によって見られる』という私の不断の可能性に帰着しうるはずである」というジャン・ポール=サルトル(哲学者)の言葉が引用されていますが、この「見る=見られる」による関係性が唯一ではありません。
「見る=見られる」が感覚的に成立することを暗黙のうちに仮定していて、もし「まなざし」による関係性が唯一だとするならば、視覚に障害のある方は世界から疎外されてしまうことになります。
西洋の哲学では倫理の問題を「まなざし」をモデルにして語る伝統があり、「まなざしの倫理」というのは、あくまでも身体接触を必要としない人の中で成立する倫理ではないだろうか。
視覚に障害のある方にとっては「距離ゼロの関係性」つまり「ふれる=ふれられる」という営みによる関係性が大切。そこには距離ゼロの中で他者とのつながりを育む上での「手の倫理」が存在している。「触覚」をモデルとした関係性を築く技術を学ぶ必要があるのではないか。それが本節の主張です。
それでは、一部を引用してみます。
とはいえ、物にさわることと生身の人にふれることは、やはり根本的に異なる経験です。ひとことでいえば、人にふれることは「倫理」の次元を含んでいます。積み木をくるくる回すことはできても、人の体を同じように回すことはできません。それは単に人の体が重いからではなくて、相手がまさに人間であり、自分と同じ心を持っているように見え、だからこそ物のように意のままに扱うことは倫理的によくないことだからです。
そもそも、視覚障害者のように文字通りまなざしをもたない人にとっては、「まなざしの倫理」はリアリティを持ちません。彼らには「目があう」といった経験はないのですから。あるいはレヴィナスは「顔」について論じていますが、これも視覚障害者にとってはピンとこないでしょう。彼らにとって顔は肩と同じくらい、表現的な意味を持たない部位なのですから。
乱暴な言い方をしてしまうなら、「まなざしの倫理」は、身体接触=介助を必要としない、健常者の身体を基準にした倫理なのです。もしそれだけが唯一の、人間に許された倫理のあり方だとされるならば、介助という「他者の体にふれる経験」は倫理の外部、場合によってはタブーになってしまいます。
本節を読みながら、ふと思い出したのは「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」に参加した時のことでした。
ダイアローグ・イン・ザ・ダークでは、文字通り「真っ暗闇」の中で対話をします。詳細は伏せますが、とても印象的だったのは、視覚情報が遮断されることによる関係性の変化です。
突如として訪れる「何も見えない」世界。不安な気持ちが湧き上がり身体は震えていたように記憶しています。その中で、周囲の人の声が聞こえると、その人との距離や声に含まれる感情に意識が向くのでした。
また、周囲の人の手に触れると、その人の手の温もりに安堵する気持ちが湧いてきます。そして、ギュッとつかむのではなくて、「ふれる」という感覚でした。何かをたしかめるように「ふれる」。
たしかに相手がそこにいること。相手の存在が感じられるだけではなくて、自分もここにいる。自分の存在を相手に伝えたい。声には出さなかったけれど、そんな気持ちでした。
明るい世界に戻り、互いの表情が見えるようになると、周囲の人はどこか恥ずかしそうでした。不思議と距離を置いてしまうというのか。
距離ゼロの関係。たしかにそこには「手の倫理」があるように思います。「見るだけに偏らない」ということ。
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