人の心は「懐かしさ」と「喜び」で出来ている
『数学する人生』(岡潔、森田真生編)から「懐かしさと喜び」という話を紹介します。
数学の教員として教壇に立っていた岡さんは講義の最後に学生に作文を依頼していたそうです。「来る日も来る日も生き甲斐が感じられない」と、学生はみな口々に声を揃えていた。痛烈な問題意識が芽生えた岡さんはその問題の根源が唯物主義、個人主義であり、それらが心の濁りをもたらしていることを見出します。魚が水の中に住むように人は心の中に住んでいるからこそ、心が濁れば人は生きることが辛くなってしまう。そのように考えたのです。
「では、人の心とは何か?」という問いについて、岡さんは次のように述べます。
人の心は「懐かしさ」と「喜び」で成り立っている。最初にこの言葉にふれたとき、正直に驚きました。「心」は深淵な存在というのか、つかめそうでつかめない。どことなく霧がかっていたけれど、スッと見通しがよくなった気がしたのです。
では、懐かしさとは、喜びとは何でしょうか。懐かしく感じること、喜びを感じること。自分の経験、実感を通して考えることができますね。まず、岡さんは次のように述べます。
何となく愉快、何となく幸福。喜びとは、幸福とはそういうものである。
人それぞれ、「こういう時が幸せ」と具体的に思い浮かぶと思います。その具体を束ねながら「そもそも幸福とは何か?」を問う人もいる。幸せの条件をつけて、その条件が満たされることで幸せという状態に至ると考える人もいる。
岡さんの言葉を手がかりにすれば「喜びを知的にわかろうとする」営みだと捉えることができるかもしれません。ですが、岡さんの考えは真逆で「何となく」なのです。
私たちは幸せにあれこれと条件をつけるあまり、窮屈になっているのかもしれません。本当は喜びを感じているけれど、喜びと感じることができない。赤ん坊の例は「本来的に人は誰しも喜びを感じることができる」のだと背中を押しているように思います。
「何を聞いても懐かしい」という言葉。懐かしさの対象は自分の過去や経験に限らない。人は自分が経験していないことにも「どこか懐かしい」と感じることがある。「どこか懐かしい」とは先程の文脈に重ねてみれば「なんとなく懐かしい」ということ。
懐かしさは、人それぞれの過去や経験のフィルタを通して知的に感じ取る、わかるものではない。だとすれば、その懐かしさは誰しもが共有することができるということかもしれません。誰もが「懐かしさ」を通して通い合う。
新しいもの、古いもの。形あるもの、形なきもの。森羅万象は「懐かしさ」を介してつながっているのかもしれない。そう思える言葉を岡さんが残して下さいました。
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