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時に委ねること。情報の奥行き(かくれた次元)。

風が冷たくなってきました。いよいよ本格的な冬の訪れを感じています。

今日は『偶然の散歩』(著:森田真生)から「メッセージ」を読んで感じたことを綴りたいと思います。

 子どもの頃、まだ誰も開いていないパリッとした新聞を手に取ることは、父が出張に出かけたときの密かな楽しみだった。人の手に揉まれる前の刷り立ての新聞の紙の匂いや手触りや質感。そうした物質的な印象は、意外と深く記憶に刻まれている。(中略)手垢にまみれ、日に焼けて変色しながら、紙に刷られた書物は、活字に託された意図とは別の物語を紡いでいく。紙に書かれたテキストそのものは複製できても、時間を通して物質に刻み込まれた「余分な情報」までも再現するのは難しい。

実家に帰ると、たまに昔の新聞が顔をのぞかせます。しっとり。パリパリ。刷りたての頃から、部屋の空気を吸い、降り注ぐ太陽の光を浴びて色あせたその佇まいはじつに趣き深い。

印字された情報は当時のままから変わらないけれど、その佇まいは時の経過を醸し出し、昔の生活をなつかしく思う機会を届けてくれます。

著者は「余分な情報」と表現していますが、それは文字情報があれば十分と考える人にとっては「余分」なのかもしれないということであって、私には現在と過去を橋渡しする重要な情報です。

あらゆるものが複製可能になり、時間と空間を超えて届く時代だからこそ、「時間をかける」ことが希少になっているように思います。「発酵させる」とも言えるでしょうか。発酵というプロセスは全てをコントロールすることはできず、最後は発酵を促進する酵母や菌に委ねる他ない。

すぐに結果を求めず、「時に委ねる」ことを増やしていきたい。そのように思ったのでした。

 逆に言うと、電子的なやり取りは、余分な情報がのらない分だけ気楽だ。だから、たまに手書きの手紙をもらうと嬉しい反面、返事を出すときは身構えてしまう。手書きの文字には、書き手の心身の状態が如実に表れる。慌てて書けば、それが書き振りに出る。どんな便箋を選ぶか、どれくらいの大きさの字で書くかなど、メールを書くときにはない選択肢もある。そのすべてが「意図せぬメッセージ」として相手に届く。メールにすっかり慣れてしまった身からすると、手紙にのる情報の多さに怖気付いてしまうのである。

「慌てて書けば、それが書き振りに出る」

手書きの手紙を書く時、筆を進めるのはいささか緊張します。何度も何度も反芻しながら書きたいことをまとめて読み返す。この手紙を受け取った人はどのように思うだろうか。重く感じるだろうか。だとすると、違う言葉に置き換えたほうがよいだろうか…。

と推敲を終えて、いざ書く番。一文字一文字を丁寧に書いてゆくが、時間をかけすぎると、文字が重くなり、全体として流れが良くなくなってしまう。かといって、サラサラっと書くと、締まりがなくなってしまう。どことなく適当に書いたような印象になってしまう。

「何を書くか・伝えるか」の裏側にある「どのように書くか・伝えるか」ということにまで気を配りたい。

朝の挨拶もそう。「おはようございます」という一言をとってみても、笑顔でハキハキと伝えるのか、なんとなーく返すのか。受け取る側の印象は全く違うはず。

こう考えてみると「情報」という言葉には「奥行き」があると感じます。奥行きとは「次元」でもあります。物事は何層もの次元に及ぶ情報が重なり合っている。そんなことを思っていると、エドワード・ホールの『かくれた次元』を読み返したくなりました。

 価値があるのは、メモの内容以上に、紙に焼かれた時間そのものである。
 しかしこのメモ、内容もまた心に響く。
 曰く、「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」。アインシュタインらしい、粋な伝言(メッセージ)である。

「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」

アインシュタインが残したメモに残されていた言葉。心穏やかであれば、きっと見えているのに見えていない情報の奥行きに、かくれた次元を感じ取ることができるのではないか。そんな気がするのです。

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