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「自ら聴く」機会の希少性

会場に足を運び、生(LIVE)の音楽にふれる。

音楽がデジタル配信され、24時間365日アクセスができる時代、ある意味で音楽を聴き流し続ける時代において、自ら「聴く機会」を持つことが希少であるように思えます。

明日はコンサート本番。奏者と聴衆が、その時間その場所の空気を共有するという一回かぎりの「ご縁」ですから、音楽にふれる喜びを分かち合えたらと思います。


いよいよ明日となりました。

一方、演奏会と呼ばれる未だに古典的な形態の下に、音楽が演奏される場合もありますが、私たちの生活にあって私たちが演奏会に用いる時間と、放送音楽に脅やかされる時間とでは、その量は比較にならないのです。すなわち、現代では音楽とは、なんらの精神的準備もないところに、突然現われるのが、極めて普通なことととなったのです。私たちの耳は、眼における瞼に相当するものをもたないので、これらの音楽を単に騒音として聴き流さざるを得ないことになるのです。したがって、強制的にこのように習慣づけられた耳を、再び音楽を理解する耳にすることは、かなり困難なことなのです。

伊福部昭『音楽入門』第十章 現代生活と音楽

このように音楽を聴き流すように慣習づけられた私たちが、今度は逆に、何か音楽作品を聴こうとする場合には、反作用として、耳に聴こえてくる音響美の外に、何かいつもとは違った意味を音楽からくみ取ろうとする方向に傾くのです。単に音楽が見事に構成されていると感ずるのみでは鑑賞とは考えられず、哲学的思索とか、文学的連想とかを無理に作り出すことに努力し、終に、さきに述べた音楽の鑑賞から遠のいていく結果を生むのです。

伊福部昭『音楽入門』第十章 現代生活と音楽

これを救うには、暴論のようではありますが、第一に、あまりに多い音楽から逃れることです。選ばれた作品を時々聴く方が毎日音を聴くよりも音楽について知ることができるかも知れません。

伊福部昭『音楽入門』第十章 現代生活と音楽

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