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魚が水の中に住んでいるように、人は心の中に住んでいる
数学者・岡潔『数学する人生』を読み進めていると、「魚が水の中に住んでいるように、人は心の中に住んでいる」という考えにふれました。具体的には次のように書かれています。
人は本来、物質的自然の中に住んでいるのではなくて、魚が水の中に住んでいるように、心の中に住んでいます。ところが、日本は終戦後アメリカから大量に「唯物主義」と「個人主義」を取り入れたため、澄んでいたはずの心の世界が、次第に濁りはじめてきています。
物質には心がない、と思うのが唯物主義で、この肉体の中だけが自分だ、と思うのが個人主義ですが、唯物主義も、そこから出てくる個人主義も、人には非常に有害なのです。まるで濁った水の中の魚のように、生きていくことが苦しいという訴えが、いたるところから出てきているように思います。
「魚が水の中に住んでいるように」とありますので、まず、魚にとっての水とはどのような存在か少しばかり考えてみたいと思います。
まず何より生命を支えるものではないでしょうか。水があることで魚は泳ぐことができます。水の浮力、抵抗があるからこそ「泳ぐ」という営みが成立します。もし水がなければ、ほとんどの魚は餌を取るための移動ができず、呼吸もできません。
次に、意識に立ち上らない存在と言えるのではないでしょうか。人が自然に呼吸ができる状態において、自分を取り巻く空気を意識しないように。自分を取り巻く空気(酸素など)が薄くなることで初めて意識に立ち上ります。潤沢に存在する時、満たされている時に意識することは多くありません。
辛いなと感じる時ほど自分の心に意識が向くのは気のせいでしょうか。何かに没入している時は「心が満ちる」途上にあると思うのですが、満ちていると意識することは少ないように思います。
生命を支えること。意識に立ち上らないこと。
「魚にとっての水」と「人にとっての心」の共通項と言えそうです。
次に「唯物主義」と「個人主義」という概念が登場しました。
「物質には心がない、と思うのが唯物主義で、この肉体の中だけが自分だ、と思うのが個人主義」と言われています。逆に言えば「物質には心がある、肉体の外にまで自分が広がっている」と捉えることが、唯物主義や個人主義を離れてゆくきっかけになりそうです。
「物質に心がある」とはどういうことなのでしょうか。
「肉体の外にまで自分が広がっている」とはどういうことなのでしょうか。
これについてはまた次回。
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