「ほどいて終わらせる」ために分かちあう、ということ。
昨日は「ほどく」ことの響き合いを綴ってみたわけだけれど、今日はその響きの余韻とでも言おうか「分解」の響き合いを綴ってみたい。分解も「解く(ほどく)」ことに他ならない。
以前に読んだユリイカ2022年5月号『菌類の世界 - きのこ・カビ・酵母』が気になりあらためて読み直している。縁の下の力持ち的な「分解者」である菌類の世界はじつにみずみずしくて豊かだなと感じる。
まずは菌類が「ほどく」営みに関するいくつかの言葉を引いてみたい。
昨日は「問題を解決する」と言うけれど、「そもそも何が問題なのか?」という点にどれほどの関心が向けられているだろうか、という問いから始め、問題を「糸のもつれ」のようなものと捉えてみることに触れた。もつれは糸と糸、線と線の絡み合い・交点であるから、それは「関係性の集合」であるとも言える。
糸のもつれをほどく時、もつれている箇所に関心を集め、そこに集まる糸がどこへ・どのように向かっているかを逆に辿り、行き着いた先から糸の絡まりをほどき始める。その意味で「目に見える」糸のほつれは、「逆算的に」ほどかれてゆく。
もつれがほどけた後に、整然と紡がれることにより、糸は織物として新しい命を吹き込まれてゆく。ゆえに新しい関係性は「ほどかれる」という形での終わりから始まるとも言えるかもしれない。
さて、菌類による「分解」は人間から見れば「腐らせる」営みなわけだけれど、腐らせたからこそ菌類に蓄積された生命の源(栄養)がネットワークを通じて新たな生命に転移していく。循環は「分解 → 再構築 → 分解 → 再構築→ …」というリズムの繰り返しなのだと気付かされる。
何かを生み出すこと、つまり「創造性」に関して説かれることが多いように思う昨今だけれど、本当は創造のアウフタクト(Auftakt:西洋音楽用語。楽曲が第1拍以外から開始すること)としての「何を終わらせるべきか?」という問いこそが大切なのかもしれない。
時として、人は何かに執着したり、手放せないことを抱えてしまう。たとえ論理で考えれば合理的でないことも、感情の波がいとも簡単に非合理の世界へと誘ってしまう。ゆえに何かを終わらせることができない。
菌類の世界から私達は何を学ぶことができるだろう。たとえば、制度が時代に即さなくなったとしても、なかなか制度を変えることができない。人にはある種の慣性の法則が働いて、制度を変えるほうが正しくとも、守るほうがラクであれば限界が来る時まで変更しないことが選択されることもある。
一つは樹木のように腐りやすくすること。私たち自身が「執着を手放す」術を身につけること。そして、自分で執着をほどくことが難しいのであれば、その執着を分かち合い、ときほぐす手を差し伸べてくれる誰かとつながること。
「自立する」というのは、必ずしも「自分一人の足で立つこと」だけを意味するのではなく、むしろ「ほどいて終わらせるために分かちあえる関係性」を築くことが大切なのではないだろうか。逃れるためではなく、終わらせることに伴う痛みや悲しみを引き受けるために分かちあう。
「人間の世界も、菌類の世界も、その本質は見えないところにあるのだ。」
という言葉は、終わらせることに伴う、目に見えない痛みや悲しみを察するための感受性や想像力を育むことの大切さを気付かせてくれるように思う。
「ほどく」ことの響き合い。
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