見出し画像

「ほどく」ということ。ほどくことから新たな関係が始まる。

新年の初詣のため、明治神宮へと足を運ぶ。

明治神宮の御籤は吉や凶などの運勢が示されているものではなく、御祭神である明治天皇の御製、昭憲皇太后の御歌から各15首選ばれ、あわせて30首に解説文をつけたものとなっている。その時々の自分の心境に則した御言葉が記されていて、全て見通されているというのか、不思議とスッと胸にすいこまれてゆくような清々しさを覚える。

今年は次のような御言葉を頂いた。

一すぢの その糸ぐちも たがふれば もつれもつれて とくよしぞなき
(糸巻を解こうとして、間違って糸口を見失うと、もつれもつれて、遂には解きほぐす方法が、なくなるものです。)

大御心 昭憲皇太后御歌(三〇)『糸』

自分に起こること、世界に起こること。いかなる「事(こと)」も様々な要因がそれこそ糸のように複雑に絡み合って起きているように思う。その事が「問題」とみなされる場合、一般に「問題を解決しよう」となるわけだけど「何が本当の問題なのか?」という点に関してどれほどの注意が向けられているだろうか。

問題を解く(とく)とことだけれど、解くとは「ほどく」とも読む。今回の御言葉にある糸巻のもつれも「ほどく」ものである。結ばれた「関係性」という、それこそ糸のもつれのようなものが、結ばれたもの同士の元来の良さを損ねてしまう。

そう考えると「何が本当の問題なのか?」という問いの答えは「もつれ方」であり、「どこが・どのようにもつれているのか?そしてなぜか?」という問いに対する答えになるはず。

ゆえに問題の「かたち」がどのようなものなのかを丁寧に観察することこそ「解く」ことの核心にあるように思う。「関係性のランドスケープ」を多面的、多層的に捉えるための視座・視野・視点、そして美しい風景を眺める時に私が意識されなくなりその風景と一つになる(忘我)ように、その地形と一つになってゆくことが必要なのだと思う。

そして、「ほどく」事は、微分方程式に新しい項を付け加えて弾みをつけることに近いのかもしれない。新たな平衡点(平衡状態)から別の平衡状態への遷移・移行を促すこと。一度弾みをつけると、その弾みが系、システム内部での相互作用を繰り返しながら、やがて新たな要素の配置、関係性が実現してゆく。そのようなイメージである。

このように考えていると、今日読んでいた柳宗悦『仏教美学の提唱』のいくつかの言葉との響き合いを感じたので、いくつか引いてみたい。

考えると、美学が必要になるのは、末世のしるしとも云える。美を論ぜねばならぬほど世が醜に沈んできたためとも云える。とかく誤った道に陥りがちである時、正しい美とは何かを示さねばならぬ必要が起る。昔はかかる美論が必要ではない程、美と社会とが一つに結ばれていたのである。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

不二に居るとは、二に囚われない身となる事である。だから知的分別を振り廻す者はとかく道を誤る。作為に囚われて、道を見失うからである。つまり二の世界に在る事は、不自由に在る事である。この自由を殺す最も大きな力は自我である。「他」と区別する「自」である。自我への執着は人間を奴隷にする。作為を凝らせば作為に倒れる。しかし作為を意識的に殺せば、新たな作為で、循環するに過ぎぬ。人間は分別の動物ではあるし、分別力が人間の人間たる所以ではあろうが、分別に縛られては、人間を殺すに等しい。どうしても分別に在って分別に終らぬ世界に出なければならぬ。仏教が無所得を説くのはその為である。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

ものを作る人も、この自在人になればよいのである。見る人が美しさに感じるとは、自在をことほぐことに他ならぬ。美しさへの讃嘆は、自在美への讃嘆なのである。美しさが人間を幸福にするのは、これで人間の心がほぐされるからである。自在美のお蔭を受けて、その自在にあやかる事が出来るからである。論より証拠、美しいと感ずる刹那は忘我になれる。この忘我は執心(拘束心)の中心たる自己が溶け去る刹那である。これが幸福を与える。その意味で美しい作は、人間に心の平和を与える。美しさは争いを鎮める。人を和やかにする。茶の道はこの平和を与える道だと云ってもよい。真の意味で茶室は幸福の室と云ってもよい。人間を拘束から解放させるからである。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

「ほぐす」という述語を通して、御歌と仏教美学が響き合う。「響き合う」というのは個が個でありながらも無分別に融け合ってゆくひとつの形なのではないか。そのように思えてならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?