「刑罰の根拠」はどこにあるのだろう?

今日は、小坂井敏晶氏(社会心理学者)による『責任という虚構』第4章「責任という虚構」より「刑罰の根拠」という節を読みました。では、一部を引用してみます。

刑罰の本質は何だろう。カント・フォイエルバッハ・ヘーゲルを代表とする古典学派と、ロンブローゾ・フェッリ・リストなど近代学派との間の刑法理論史における対立が知られている。前者は非決定論の立場から犯罪行為を自由意志の所産と考えたのに対し、後者は自由意志を否定または軽視して決定論的発想の下に、犯罪行為を各人の先天的素質・社会環境の産物として理解した。
だが、どちらの立場もそれぞれ論理的困難を抱える。殺人事件が発生した時に犯人が罰せられるのは何故か。悪いことをすれば、報いを受けるのが当然だと応報刑論は言う。しかし殴られたら殴り返すことで、あるいは殺された被害者に代わって国家が犯人を処刑することで正義が実現されると何故言えるのか。人間の自然な本能として復讐を是認するだけなら、原始社会の復讐と変わらない。応報を正当化する根拠はどこにあるのか。
重罪を犯し将来の再犯が明らかな常習犯であっても、威嚇や苦痛を通して犯罪予防が望めないならば、罰を科す意味を失う。社会防衛の名目で隔離や処刑は正当化されても、行動習慣が変化しないなら刑罰は無意味になる。この論理からすると、改善余地のない常習犯を苦しめることは野蛮なだけでなく、社会コストの観点から無駄だ。凶悪犯罪者であっても再犯可能性がなければ刑罰を課す根拠が消える。刑務所に収容して自由を制限する必要もなければ、肉体および精神的な苦痛を与える正当性も失われる。

「刑罰の本質は何だろう」

このように問いかけられると、答えるのがなかなか難しいと感じました。

「責任」について考える中で、当事者に責任を負わせるためには、その当事者が自由である必要がある。つまり他の何物からも影響を受けることなく、本人の自由意志で行動したと定める(みなす)必要があるという話がありました。

本人にコントロールできない要因(外因)で出来事が生じた場合、因果論の中で本人に責任を負わせることは論理構造的な矛盾を抱えている。

また「自由」は主観的感覚であり、自由だと感じる出来事ほど「決定論的」であるという話もありました。自由という感覚は、経験の積み重ねの中で築き上げられた価値基準などに基づく行動を通じて実感できる。

ですが、経験は自分の外にある環境との相互作用の蓄積であり、自分の価値基準は多分に自分の外部に依っていて、自分が自由に決めているつもりが、じつは自分の外側の要因で既に決定されているとも言える。それが決定論的ということだと理解しました。

「刑罰」という言葉は「責任」と対になる言葉のように思います。「刑罰」は責任の取り方の一つとして捉えるとすれば。

著者によれば「過去の行為への復讐として刑罰を考える」という古典学派と、「犯罪予防・社会秩序の維持」に刑罰の根拠を求める近代学派という2つの立場が存在するとのことです。

あらためて「なぜ刑罰を与えるのでしょうか?」「なぜ刑罰が正当化されるのでしょうか?」「そもそも刑罰とは何でしょうか?」

著者は「社会防衛の名目で隔離や処刑は正当化されても、行動習慣が変化しないなら刑罰は無意味になる。(中略)凶悪犯罪者であっても再犯可能性がなければ刑罰を課す根拠が消える。」と述べるわけですが、「それでも刑罰を与えなければならない」と感じるならば、それはなぜでしょうか。

二度と同じことを繰り返さないためでしょうか。
失われた何かを埋め合わせるためでしょうか。

「相手は罰せられて当然だ」あるいは「自分は罰を受けて当然だ」と思う時があるとしたら、それはどんな時でしょうか。

過去の行為への復讐として刑罰を考える立場、犯罪予防・社会秩序の維持を求める立場。両方ともに一定の合理性を感じる反面、本当にそれで良いのかと、どこか割り切れません。

「行動習慣が変化しない」あるいは「再犯可能性がない」ということが担保されるためには何が必要なのでしょうか。そこに私が感じる割り切れなさを紐解く鍵があるような気がしています。

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