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内観と外観 〜"見ることがすなわち作ることである"という言葉を手掛かりに〜

「見ることがすなわち作ることである」

西田幾多郎(哲学者)による言葉に触れたとき、「あぁ…そうかもしれない」と感じたので、この言葉の奥行きを、自分の経験を踏まえて探ってみたいと思います。そして、「見る」とはどういうことなのか、ということも。

ヨガに取り組んでいる時の自分の身体を思い浮かべてみると、西田氏の言葉にある「見る」とは、「内観」と「外観」が共時的に調和している状態ではないかと思えます。「身体を内観する」とは身体の隅々まで「つながっている」感覚が広がってゆくことに近いです。

では、「身体を内観しているときに外観していないのか」と言われると、そうではなく、鏡に映る全身が"ぼんやり"と映っています。どこかに意識を集中させているかというとそうでもなく、瞼は脱力していて日常的に優位な視覚の働きが自然と弱まっています。そして、内観は「つながっている感覚」を下支える「触覚」が優位であるように思います。

見るという言葉からは、「見る者」と「見られる対象」という関係をイメージしますが、それは「外観」のみを取り出していて、内観が捨象されている。

たとえば、道端に咲く花を眺めたり、美しい音楽に全身が包まれる時など。身体がじんわりと震える感覚と共に、気付けば自分がここにいることを忘れていた、なんていうことはないでしょうか。

人は、自分の外に広がっている存在を心的に内側に取り込み、それを大地として、いつ芽吹くかは分からない種を撒き、無意識のうちに育んでいる。何度も何度も思い返しているうちに、イメージが発展する。再帰性と偶然性が出会うところに多様性が生まれてゆく。

「見ることがすなわち作ることである」という言葉にある"作る"から「育む」という香りがします。

 花をいくつか摘んできて、お気に入りの花瓶にちょうどよくきれいに飾ることができたとき、わたしたちはあたかもその花々を自分でつくりあげあげたかのような気分のよさを感じてしまうものだ。
 もちろん、それは勝手な気分にすぎず、道ばたでひっそりと踏まれている小さな雑草の一本さえ、わたしたちはみずからの力でつくりあげることなどできないのだ。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

 芸術の内容は直観的であるというが、芸術的直観は単なる直観ではない、表出運動を通じて見たる直観的内容である。芸術的創作はまた単なる創作ではない、見ることがすなわち作ることである、内容それ自身の発展である。ゲーテの経験においてのごとく、一つの花の心像の中から自ら無数の新たなる花を生ずるのである。芸術家の直観はすなわち形成作用Gestaltungst¨åtigkeitである。かくのごとき直観即創造たる芸術的立場は、物と心とを独立の存在と考え、知と意とを独立の作用と考える立場からは、到底これを理解することはできぬ。

西田幾多郎論文選『真善美』より 美の本質

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