見出し画像

掴むでも握るでもなく、「抱く」ということ。

抱く(いだく)

この言葉と出会い直したことの懐かしさ、喜びを綴ってみようと思います。

掴む(つかむ)でも、握る(にぎる)でもなく、抱く。

自分の身体はじつに不思議なもの。身体を動かしていたり、呼吸に集中していると、ふとした瞬間に今まで気付いていなかったことに気付いたり、バラバラだった物事が一瞬にして星座のように意味を成す瞬間が訪れます。

いつものようにヨガに取り組んでいたときのこと。おへその下あたりの腹部の内側(バンダ、丹田)を意識できるようになってから身体の使い方が驚くほど変わり、今日も意識を向けていました。が、なかなか「思うように力が入らない」という状態に。

「なんとか動いてほしい。動かしたい」と思えば思うほど、意識を向ければ向けるほどに可能性が遠ざかっていくような感覚に。このような時はえてして部分に意識が集中しすぎるあまり、全体の調和が乱れている。底なし沼のように、もがけばもがくほどに深みにはまってゆくことが多いです。

おへその下の内側の筋肉はとても繊細。ここが使えている時の感覚を言葉にすると、「ギュッ」ではなく「フワッ」とやわらかく包み込むような感じ。

その瞬間に降りてきた言葉が「抱く」だったのです。と同時に、降りてきたイメージは「抱かれた赤ん坊の笑顔」でした。

おへその下の内側にある繊細な筋肉を、生まれたての赤ん坊だと思ってみる。すると、余計な力みがスッと抜けて身体の繊細な声が少しずつ聴こえるようになってきて。気づけば呼吸も楽になって全身が無理なく動くように、調和を取り戻していました。

掴むでも握るでもない「中庸」としての抱く。

「抱く」には対話、謙虚、尊敬、配慮、慈しみ、そうした概念がやわらかに包み込まれている。言葉が変われば身体の使い方が変わる、身体の使い方が変われば意識が変わる。本来の自然なやわらかさを取り戻せば、あとは「自然と成る」のだと。

"為す"のではなく"成る"。

こうした言葉の対比として「人為」と「熟成」を挙げてみると、前者は"意識"や"制御"、後者には"待つ"や"委ねる"が下支えしているように思います。

意識や意志の力で何かを実現しようとする。そのような時、私たちは「つかみ取る」と言います。もちろん、目標や目的を定めて健全な努力を積み重ねることは大切だと思います。ですが、つかみ取るばかりに偏ってしまうことには、どこか危うさが潜んでいるように思うのです。

「いだく」という営み、言葉の可能性。「自分を抱く」という時、それは自己中心性を意味するのではなく、むしろ自分を縛っている何かを手放してゆくことに他ならないんだなと思うのです。

私はこれまで何を抱いてきただろう。そして、これから何を抱いていくのだろうか。大切な人、大切な言葉、大切な出会い、大切な音楽、大切な時間、大切な場所。

思うままに綴りながら、「いだく」という言葉に広がりが生まれるきっかけとなった、自分の内側にある原風景をいくつか。

雲井雅人さんのサックス(Saxophone)が奏でる音に惹かれるのはなぜだろうと考えてみると、ああ…「抱いている音」なんだなと。澄み渡って力強くもやわらかな音。中庸な美しさ。

もう一つは、とても大切な歌詞。赤ん坊のイメージと響き合ったんだなと。抱くことで自由の香りが感じられるようになってくる。いつかきっと。

Freedom has a scent. (自由には香りがある)
Like the top of a newborn baby's head. (生まれたばかりの赤ん坊の頭のてっぺんみたいに)

U2 『Miracle Drug』 

また一つ自分がほどけた喜び、懐かしさに思わず涙腺が緩んだのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?