「さくら」という響き。〜言葉、情緒、そして心〜
「さくら」
とても爽やかな響きの香る花の名です。
満開の桜が咲き誇る様は、どこか背中を力強く押してくれていたり、門出を祝福してくれているように感じられます。
枝垂れ桜が重力に逆らうことなく枝垂れている様は、自然体で、ゆったりとした時間の流れや、素朴さをまとっているように感じられます。前面に主張することなく、奥ゆかしい力強さとも言えるかもしれません。
桜の花びらが「フワッ…」と風に散ってゆく様子は儚さを感じますが、その舞い散る軽やかさが、どこか夢を見ているような、浮かんでは消えてゆく泡のような淡さをまとっているように感じられます。
これは私が感じる印象の一例ではありますが、「さくら」という響きが全てを包み込んでいるように感じられるのは、とても不思議です。もし「さくら」の花が他の名前であったとしら、もしかすると「しっくりこない…」という印象を抱いていたのでしょうか。
そして、さくらを眺めているうちに、気づけば自分の存在への意識は薄れ、「見る(主観)・見られる(客観)」の関係から「さくら=私」という関係へとなめらかに遷移してゆく。そうした感覚がありました。
おそらく「さくら=私」の関係へと移行する中で、先入観や印象を離れて、花のもつ情緒、心が少しばかり感じられていったからなのかもしれません。
言葉、響き、情緒、心。これらは全てつながっているように思えるのです。
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