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配慮と敬意の違い

今日も引き続き『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「一人の中にある無限」を読みました。

「多様性」という言葉を「人それぞれが持つ多様な側面(多面性)」として捉えることが必要ではないか。他者との差異だけが「多様性」ではない。

そして、著者が「個人の内側にある多面性」の重要性に気づいたエピソードとしてマサチューセッツ工科大学(MIT)に掲示されていたポスターに書かれていた「Be your whole self.」という言葉でした。

大切な気付きと共に浮かんできたのは次の問いです。

「個人の多面性が自然と引き出される環境とはどのようなものだろうか?」

今日はこの問いを考えるヒントになる言葉に出会えたような気がします。

 このことは、裏を返せば、「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提で人と接する必要があるということでしょう。それは配慮というよりむしろ敬意の問題です。この人は、いま自分に見えているのとは違う顔を持っているのかもしれない。この人は、変わるのかもしれない。変身するのかもしれない。いつでも「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくことこそ、重要なのではないかと思います。
 すぐそこにありながら、触れることができていないものが私たちのまわりには無数にあります。もちろんここでの「さわる/ふれる」は、文字通りの触覚的な意味ではなく、実際に関わることで意外な側面に出会うという意味での「さわる/ふれる」です。私たちはすべてのものにさわる/ふれることはできませんが、しかしすぐ近くにあるいくつかのものについては、もうすこし「さわる/ふれる」技術を身につけてもよいのではないか。これが、文字通りの触覚的な「さわる/ふれる」を通して、本書で考えてみたいことです。

「それは配慮というよりむしろ敬意の問題です。」

配慮と敬意の違いとは何でしょうか?
「相手をリスペクトしよう」と言われることがありますが、どうしたら相手をリスペクトしたことになるのでしょうか?

配慮は「自分の知識や経験、想定の範囲内に収める態度」と言えるかもしれません。たとえば、相手は初心者なので「大きなケガや事故がないように手加減をする」あるいは「咀嚼力が落ちてきた方でも食べやすいように食材を細かくする」など。

相手の可能性(力量)を固定的なものと推測し、その中に将来を収めてゆくイメージです。

それに対して、敬意とは「相手の可能性を狭めない、自分の尺度・枠に押し込めない態度」だと思います。

「相手はこれぐらいしかできないはずだ」とか「こんなことを言うなんて、相手は〇〇に違いない」など。そうやって、自分が想像できる範囲の中に相手を押し込め、その想像の範囲の中で相手の行動を予測、コントロールしようとする態度。それが敬意の反対なのだろうな、と。

「私たちはすべてのものにさわる/ふれることはできませんが、しかしすぐ近くにあるいくつかのものについては、もうすこし「さわる/ふれる」技術を身につけてもよいのではないか。」と著者は述べますが、「さわる」対象は物理的世界に限りません。

「琴線にふれる」という表現があります。「心が動く・感動する」に近い言葉です。

自分の外側の何かにふれると同時に、自分の内側の何かにもふれている。

物理的な世界の「作用・反作用の法則」の射程は、物理に留まらないように思うのです。

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