見出し画像

染めず・染まらず・グラデーション

今日も引き続き『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「「多様性」という言葉への違和感」を読みました。

「多様性」という言葉、概念についてもう少し思い巡らせたいと思います。

「なぜ多様性が大事なのか?」と問われたらどのように答えるでしょうか?

「生物多様性(Biological Diversity)」という概念があります。文字どおり、「多様な生物が存在していること」です。その生物多様性が環境破壊により失われつつあります。

「なぜ生物多様性が大切なのか」と言われれば、生物はお互いに支えあって生きているからです。それぞれの生物が環境に適応しながら、その中で捕食する・される、支える・支えられる、生まれる・死ぬ、という循環の中で生命が保たれる。それが生態系です。生物が多様であり、住み分かれている中である意味「自分らしく」生きているわけです。

そして、特定の生物が絶滅してしまうと、その生物とつながりの深い生物もまた生存が困難になってしまう。生命の循環が逆転して、生態系全体が崩壊しかねません。

人間の場合は単純な物質的世界だけではなく、その上に存在する意味や価値の世界に生きています。その中で「多様ではない」というのは、全員が同じ意味や価値観を持つ状態。それはある意味で「強制」や「抑圧」を伴うものかもしれません。

「多様性」という言葉を自分事として捉えるとするならば、多様性の中には自分という存在があって「自分が自分らしくある」ということ。そして他者も同じように「自分が自分らしくありたい」とする中で、お互いに直接的・間接的に支えあって生きてゆく。

相手を染めるのでもなく、自分が染まるでもなく。グラデーションのような社会をグラデーションとして保ち続けてゆく。

一部を引用します。

 倫理とは、「他人のことに口を出すべからず」が問題解決として役に立たない - どれほど意見が分かれていようとも、一緒に問題を解決していかなければどうしようもない - 、まさにそのような問題に照準を当てたものだということになる。私たちは、ともに生きていかねばならない。だから、なおも考え続け、語り続けなければならない。これこそが、倫理そのものであり、倫理的にふるまうことにほかならない。
 つまり、多様性という言葉に安住することは、それ自体はまったく倫理的なふるまいではなく、いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこにこそ倫理があると言うのです。
 これに対し、さわる/ふれることは、物理的な接触ですから、その接触面に必ず他者との交渉が生じます。物理的であるからこそ、さわる/ふれることは、避けようもなく「他人のことに口を出す」行為なのです。他者を尊重しつつ距離をとり、相対主義の態度を決め込むことは不可能。この意味でさわる/ふれることは、本質的に倫理的な行為だと言うことができます。

昨日、私が以前に「哲学対話(Questions without Answers)」という場に参加していたことに触れました。

哲学対話では参加者が対話したい「問い」を出しあって自由に対話するのですが、そこでは「人それぞれはなし」というルールが設けられていました。

そこでの問いは「唯一の答えがない(ように思える)」ものばかりです。だからこそ対話の幅が広がります。そして大切にされるのは「なぜそう思うのか?」です。

「なぜ?」を説明しようと思うと、言葉に参加者自身の「経験や価値観」がにじみ出ます。相手の言葉に耳を澄ませて想像する。時折やってくるのは、「もしかしたら、自分は違うのかもしれない」という「ゆらぎ」です。

そのゆらぎの中で、何かモヤモヤした気持ちがあれば、相手に問いかける。

その繰り返しの中で、自分の中の何かが不安定になる時間もあれば、逆に、「自分が囚われていた何か」に気付いて晴れ晴れとした時間が訪れることもありました。

著者は「物理的であるからこそ、さわる/ふれることは、避けようもなく「他人のことに口を出す」行為なのです。」と述べていますが、まさに相手の奥底にふれたかもしれない...と思うとき、自分の何かが解けるような感覚がありました。それは何かの言葉かもしれないですし、問いかもしれない。

最近は哲学対話に参加できていませんが、収束させるための議論ではなく、自分を解くための対話をまた再開できたらな、と思う今日この頃です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?