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多様性とは何だろう?

今日は『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「「多様性」という言葉への違和感」を読みました。

本節の主題は「多様性(Diversity)」です。

日常の中で「多様性」という言葉を耳にする機会は確実に増えていると思います。「多様性を大切にしよう、尊重しよう」という声は、たしかに私にも届いています。

「多様性」が意味するところは何なのでしょうか。多様性を主張するだけで十分なのでしょうか。

「Diversity & Inclusion」と言われますが、本当に大事なのはInclusion(包摂)つまり、多様な事物が調和する、有機的に結びついていることだと思います。

多様だとしても「それぞれでいいよね」として分断されている状態が生じているとしたら、それは「多様性を大切にする」ことになるのでしょうか。

マジョリティとマイノリティ。

本書を通じて「道徳と倫理」は「一般と個別」という関係に対置されることを学びました。「マジョリティとマイノリティ」という関係を「一般と個別」というレンズで眺めてみると、マジョリティという言葉はもしかすると「一般」として置き換えられているのかもしれない、と思いました。

自分が「慣れ親しんでいる」世界とは異なる世界。異なる社会、文化、価値観。そレラの接点では「自分のアタリマエ(一般だと思っていたこと)」が通じず摩擦が生じます。そのときに相手が世界、「個別」に立ち入ることになります。

「自分は自分、相手は相手」として割りきるのではなく、「分かりあえないかもしれないけれどわかり合おう」とする営みを通じて、妥協点とは異なる共生に向かってゆく。

Inclusion(包摂)は「言うは易し、行うは難し」かもしれませんが、でも、(水の抵抗を感じながら)水の中を自由に泳ぐように、摩擦を感じながら、互いの自由を見つけていくような営みと言えるのかもしれません。

著者は「「多様性」という言葉そのものは、別に多様性を尊重するわけではない。むしろ逆の効果すら持ちうるのではないかと感じています。」と述べていますが、多様性という言葉が何を意味するのか。多様性という言葉の「手触り」を探ってみたいです。

それでは、一部を引用してみます。

 言葉に寄りかからず、具体的な状況の中で考える。私が強くそう念じる背景にあるのは、実際に、気になって警戒しているある言葉があるからです。それは「多様性」という言葉です。あるいは「ダイバーシティ」「共生」といった言葉もそう。延期になった東京オリンピックの大会ビジョンに始まり、企業の広告や大学のパンフレットなど、いまあらゆるところでこの言葉が使われています。便利で、私自身も止むを得ず使ってしまうことがあるのですが、この氾濫ぶりは異常だと思います。
 もちろん、人が一人ひとり違っていて、その違いを尊重することは重要です。「多様性」の名の下に行われている取り組みには、こうした違いを尊重し生かすことに貢献するものもあるでしょう。しかし、「多様性」という言葉そのものは、別に多様性を尊重するわけではない。むしろ逆の効果すら持ちうるのではないかと感じています。
 もしかすると、「多様性」という言葉は、こうした分断を肯定する言葉になっているのかもしれない、とそのとき思いました。多様性を象徴する言葉としてよく引き合いに出される「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩は、一歩間違えば、「みんなやり方が違うのだから、それぞれの領分を守って、お互い干渉しないようにしよう」というメッセージになりかねません。つまり、多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。「多様性」という言葉に寄りかかりすぎると、それは単に人々がバラバラである現状を肯定するための免罪符のようなものになってしまいます。

注目したいのは「つまり、多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。」という著者の言葉です。

「不干渉がInclusion(包摂)を阻んでいる」のかもしれないと感じました。

「干渉する」とは、具体的にどういうことでしょうか?

口を出すこと?文句を言うこと?異を唱えること?

Inclusion(包摂)の文脈で捉えると、それは「相手を自分が思うアタリマエに誘導する」ということではないはずです。

物理の世界では、波と波が重なりあうことを「干渉」といいますが、まさに「相手の世界に重なってゆくこと、分かろうとすること」が干渉のイメージだと思います。

たしかに、自分が慣れている環境のほうが物事はスムーズに(予定調和的に?)ストレスなく進んでいくかもしれません。未知の世界に「干渉する」と、「自分のアタリマエがアタリマエではない」と気付き、相手に対して何をどのように聞いたらよいのか分からない...と戸惑うこともあるかもしれません。

だからこそ「健全な干渉の仕方」の作法、態度、姿勢を身につける事が必要なのかもしれません。

ふと、以前参加していた「哲学対話」のことを思い出しました。そこでは、対話の参加者が「問い」を立てて対話します。そこで「人それぞれはNG」というルールがあったのです。それはまさに「健全に干渉すること」「Inclusionすること」の作法だったのだな、と実感しました。

一緒に考える問いを立てることから。

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