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倫理の個別性

今日は『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「「倫理一般」は存在しない」を読みました。

本節の主題は「倫理の個別性」です。

「倫理と道徳」を「本音と建前」と捉えている人もいるかもしれません。ですが、本当にそのように読み替えてしまってよいのでしょうか?(同値性が保たれているのでしょうか?)

倫理的な判断というのは、「その人自身の固有性」と判断を迫られている「文脈の固有性」に依拠しているのであって、「こうあるべき」という一般的・普遍的な倫理というものは存在しません。

そのことを踏まえると「倫理と道徳」は「個別と一般」と対比されることが自然であって、機械的に(杓子定規的に)個別を一般にあてはめればよいというものではない、ということ。

「倫理と道徳」というそれぞれ言葉の輪郭・境界がはっきりとするような内容でした。

それでは、一部を引用します。

 哲学者のアラン・バディウは、その名も『倫理』という本のなかでこう述べています。「倫理を抽象的範疇(人間、権利、他者......)に結びつけるのではなく、むしろさまざまな状況へと差し戻すことにしよう」。そしてバディウは言います。倫理に「一般」などというものはない、と。なぜなら状況が個別的であるのに加えて、判断をする人も、それぞれに異なる社会的、身体的、文化的、宗教的条件のなかに生きており、その個別の視点からしか、自分の行動を決められないからです。
 哲学や倫理学のような学問の領域に限らず、社会生活のさまざまな場面で、私たちはものごとを一般化して、抽象化して捉えてしまいがちです。「人間」「身体」「他者」という言葉。ほんとうは、そんなものは存在しません。それぞれの人間は違うし、それぞれの身体は違うし、それぞれの他者は違っています。
 けれどもついついその差異を無視して「人間一般」「身体一般」「他者一般」について語り、何かの問題を扱ったような気になってしまう。もちろん、道徳が提示する普遍的な視点を持つことも重要です。そうでなければ、人は過剰に状況依存的になってしまい、その場まかせの行動をすることになってしまうでしょう。けれども、「一般」として指し示されているものは、あくまで実在しない「仮説」であることを、忘れてはなりません。なぜなら「一般」が通用しなくなるような事態が確実に存在するからです。そして、倫理的に考えるとは、まさにこのズレを強烈に意識することから始まるのです。

本節を読んであらためて思ったことは「一般論との向き合い方」です。

「それぞれの人間は違うし、それぞれの身体は違うし、それぞれの他者は違っています。」という著者の言葉にハッとさせられます。

特に、情報化・デジタル化の中で、個人の存在が数字や文字などのデータに還元されてゆく昨今。それはある意味で、コンピュータの力を借りるために「コンピュータが扱いやすい存在」に変換してしている、とも言えるかもしれません。

そして、データとしての個人の存在は、統計的な処理の中でグルーピング・比較され、特徴付けられてゆく。データには存在しない個人にも当てはまるような「一般的な法則」を見出される。

もちろん、データの活用は意味のあることだと思います。ですが、データの向こう側には、生身の身体を持った人がいるのだということ。その人たちはそれぞれが表情のある固有の存在であるということ。そのことを忘れてはならないと思うのです。

「そして、倫理的に考えるとは、まさにこのズレを強烈に意識することから始まるのです。」と著者は述べています。

日常の中で「世間ではこうだから」「ルールだから」などの言葉が聞かれる場面で時として感じる「何とも言えないわりきれなさ」こそ著者の言うズレだと思います。

「わりきれなさ」に直面したときは「そもそも」から一緒に考えたいと思うのです。

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