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言葉は便利であるがゆえに不便でもある。

言葉は便利である。便利であるがゆえに不便でもある。そんなことを思うわけです。

もしも言葉が存在しなければ、自分を取り巻く世界、環境は混沌としたものになっていて、あらゆるものが「それ」「あれ」と表現せざるをえない、いや「それ」とか「あれ」とすら表現することができません。

言葉は物事、事物にラベルを与え、混沌とした世界を文節化することで秩序を生み出してゆくわけですが、では「あらゆる物事、事物を言語化することはできるのだろうか?」という問いが浮かんできます。

言葉による文節化は連続的な世界を「離散化」してゆく営みのようなもので「削ぎ落としてゆく」あるいは「割り切る」に近いけれど、言葉を用いることで物事や事物を特定、認識したり、概念として操作ができるようになる。

概念として操作できるというのは、何かを伝える、何かが伝わることを可能にすることの土台でもあります。その意味で、言葉は「意味の器」のようなものとも捉えることができるわけですが、言葉にどのような意味込めるのかは人それぞれであり、だからこそ不便でもあります。自分が意図した意味が相手にそのまま伝わるとはかぎりません。

言葉は意味の器であると同時に、アンカー(錨)のようなものでもあって、ひとたび言葉にしてみると認識できる一方、その認識に囚われてしまう側面も持ち合わせているように思います。

混沌とした世界、状況を言葉に表して整理してゆくことは「秩序を生み出す」ことに他ならないと思うのですが、一度生み出した秩序を作り変えることは案外難しい。

言葉にすることでボヤけた世界の輪郭を浮かび上がらせつつも、囚われないためにはどうすればよいのだろう。そのようなことを思うわけです。

私たちはよく理解できていない事柄までをも、物になぞらえて理解しようとする傾向がある。たとえば、時間だ。わたしたちはこう言う。「時間が流れていく」「またたくまに時間が過ぎ去る」「時間が消費される」「時間がもったいない」このような言い方はふつう、川の水や風や食べ物など、物についての言葉だ。それを時間にまで安易にあてはめて、時間とはそれら物質と似たような性質を持つものだという観念を固く持ってしまっている。そういうふうに言葉の比喩から考えるようになると、時間はいつのまにか物の一種になってしまう。その姿勢からは、変化を時間という言い方で表しているという別の考え方ができなくなってしまう。それと同じように、一つの考え方しかできないのならば、その考え方に沿った生き方しかできなくなってしまう。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

人はいとも簡単に言葉の魔術にだまされてしまう。たとえば、強力な魔力を持った言葉はこれだ。「知っている」
知っていると言われただけで、相手はその事柄のことごとくを理解しているのだというふうに考えてしまう。同じように、自分はそれについて知っていると思った瞬間、もはや深くまで追求していこうとはしなくなる。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』


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