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「本音と建前」の現代的解釈

公共の場で「本音」を語る事は難しい。そして、その難しさそのものを理解できない人たちがいる。

例を挙げて、「本音」を公共の場で話すのは、性器をむき出しにして、街中を歩き回るに等しいと説明しても、これも理解が得られない。

SNSもまた、公共の場であり、今日が検閲の時代である事もまた理解されていない。理由がはっきりしませんが、私は何度も警告を受けたりアカウント制限を受けています。それもまた、奴隷達には理解できない。おっと、言いすぎですね。

日本人は集団主義に慣らされ、「本音」を言えないので、「失われた30年」と呼ばれる経済的停滞期を迎えた、と言う人がいる。明らかに間違いなのだが、それを指摘しても、理解できず、「意見の相違」だと言う。この人々は、政治や経済を論じる事は「趣味」(カントの『判断力批判』の文脈に於いて)の問題であり、学問的に追求すべきものではないと考えているのです。

おかしいと思うから、お節介で、指摘しているのですが、持論を決して曲げず、同じ話を繰り返し、まだ議論を続けようなどと言う。先に口を出しているのが自分なので、調子がいいといえば調子のいい話ですが、全然話が通じていないのに、続けるも何もない。

このようなSNSのやり取りは畢竟暇つぶしであり、何の益にもならない。私は私の問題意識をもって、芸術と人生に取り組んでいくしかないのです。

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