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道化の華 太宰治

1935年に発表された太宰治の初期の作品である『道化の華』を収録。
旧字体を新字体に変換し読みやすくしています。
この『道化の華』の主人公、大庭葉蔵は『人間失格』の主人公と同じ名前である。

登場人物

大庭葉蔵(おおばようぞう)…主人公。女と心中を図り一人だけ生き残った

園(その)…葉蔵と共に心中を図った女

飛騨(ひだ)…葉蔵の中学からの友人で葉蔵のことを尊敬し慕う

小菅(こすげ)…葉蔵の親戚で三歳年下。年は違うが葉蔵と飛騨と隔たりのない友人

眞野(まの)…葉蔵が入院している療養所の看護婦

道化の華

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「ここを過ぎて悲しみの市(まち)。」
 友は皆、僕から離れ、悲しき眼もって僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友は虚しく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕は何でも知らせよう。僕はこの手をもって、園を水に沈めた。僕は悪魔の傲慢さをもって、我甦るとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただ悲しき眼をもって僕を眺める。
 大庭葉藏はベッドの上に座って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた。
 夢より醒め、僕はこの数行を読み返し、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰極まったり。だいいち、大庭葉藏とは何事であろう。酒でない、ほかのもっと強烈なものに酔いしれつつ、僕はこの大庭葉藏に手をうった。この姓名は、僕の主人公にぴったり合った。大庭は、主人公のただならぬ気迫を象徴してあますところがない。葉藏はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出る本当の新しさが感じられる。しかも、大庭葉藏とこう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに画期的ではないか。その大庭葉藏が、ベッドに座り雨にけむる沖を眺めているのだ。いよいよ画期的ではないか。
 よそう。おのれをあざけるのはさみしいである。それは、ひしがれた自尊心から来るやうだ。現に僕にしても、ひとから言われたくないゆえ、まず真っ先におのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だ。もっと素直にならなければいけない。ああ、謙讓(けんじょう)に。
 大庭葉藏。
 笑われてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだろうけれど、僕にはちょっとめんどうらしい。いっそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」という主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのが照れくさいのである。僕がもし、あすにでもひょっくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかった、としたり顔して述懐(じゅっかい)する奇妙な男が出て来ないとも限らぬ。ほんとうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉藏をやはり押し通す。おかしいか。なに、君だって。


 一九二九年、十二月の終わり、この青松園という海浜の療養院は、葉藏の入院で、すこし騒いだ。青松園には三十六人の肺結核患者がいた。二人の重症患者と、十一人の軽症患者とがいて、あとの二十三人は回復期の患者であった。葉藏の収容された東第一病棟は、いわば特等の入院室であって、六室に区切られていた。葉藏の室の両隣は空室で、いちばん西側のヘ号室には、背と鼻のたかい大学生がいた。東側のイ号室とロ号室には、若い女のひとがそれぞれ寝ていた。三人とも回復期の患者である。その前夜、袂ヶ浦で心中があった。一緒に身を投げたのに、男は、帰船の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであった。その女のひとを捜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乗り出して行く掛声を、三人は、胸とどろかせて聞いていた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸をさまよった。大学生も、ふたりの若い女も、その夜は眠れなかった。あけがたになって、女の死体が袂ヶ浦の波打際で発見された。短く刈りあげた髮がつやつや光って、顔は白くむくんでいた。
 葉藏は園の死んだのを知っていた。漁船でゆらゆら運ばれていたとき、すでに知ったのである。星空の下でわれにかえり、女は死にましたか、とまず尋ねた。漁夫のひとりは「死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら」と答えた。なにやら慈悲ぶかい口調であった。死んだのだな、とうつつに考えて、また意識を失った。ふたたび眼覚めたときには、療養院のなかにいた。狹くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいっぱいつまっていた。そのなかの誰かが葉藏の身元をあれこれと尋ねた。葉藏は、いちいちはっきり答えた。夜が明けてから、葉藏は別のもっとひろい病室に移された。変を知らされた葉藏の国元で、彼の処置につき、取りあえず青松園へ長距離電話を寄こしたからである。葉藏のふるさとは、ここから二百里もはなれていた。
 東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寝ているということに不思議な満足を覚え、今日からの病院生活を楽しみにしつつ、空も海もまったく明るくなった頃ようやく眠った。
 葉藏は眠らなかった。ときどき頭をゆるくうごかしていた。顔のところどころに白いガーゼが貼りつけられていた。波にもまれ、あちこちの岩でからだを傷つけたのである。眞野という二十くらいの看護婦がひとり付き添っていた。左の瞼の上に、やや深い傷痕があるので、片方の眼にくらべ、左の眼がすこし大きかった。しかし、醜くなかった。赤い上唇がこころもち上へめくれあがり、浅黒い頬をしていた。ベッドのそばの椅子に座り、曇天の下の海を眺めているのである。葉藏の顔を見ぬように努めた。気の毒で見れなかった。
 正午ちかく、警察のひとが二人、葉藏を見舞った。眞野は席をはずした。
 ふたりとも、背広を着た紳士であった。ひとりは短い口髭を生やし、ひとりは鉄縁の眼鏡を掛けていた。髭は、声を低くして園とのいきさつを尋ねた。葉藏は、ありのままを答えた。髭は、小さい手帖へそれを書きとるのであった。ひと通りの尋問をすませてから、髭は、ベッドへのしかかるようにして言った。「女は死んだよ。君には死ぬ気があったのかね。」
 葉藏は、だまっていた。
 鉄縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額に皺を二三本もりあがらせて微笑みつつ、髭の肩を叩いた。「よせ、よせ。可哀想だ。またにしよう。」
 髭は、葉藏の眼つきを、まつすぐに見つめたまま、しぶしぶ手帖を上衣のポケツトにしまい込んだ。
 その刑事たちが立ち去ってから、眞野は、いそいで葉藏の部屋へ帰って来た。けれども、ドアをあけたとたんに、嗚咽している葉藏を見てしまった。そのままそっとドアをしめて、廊下にしばらく立ちつくした。
 午後になって雨が降りだした。葉藏は、ひとりで便所へ立って歩けるほど元気を回復していた。
 友人の飛騨が、濡れた外套(がいとう)を着たままで、病室へおどり込んで来た。葉藏は眠ったふりをした。
 飛騨は眞野へ小声でたずねた。「大丈夫ですか?」
「ええ、もう。」
「おどろいたなあ。」
 彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套(がいとう)を脱ぎ、眞野へ手渡した。
 飛騨は、名のない彫刻家で、おなじように無名の洋画家である葉藏とは、中学校時代からの友だちであった。素直な心を持った人なら、その若いときには、おのれの身辺(しんぺん)近くの誰かをきっと偶像に仕立てたがるものであるが、飛騨もまたそうであった。彼は、中学校へ入るときから、そのクラスの首席の生徒をほれぼれと眺めていた。首席は葉藏であった。授業中の葉藏の一笑も、飛騨にとっては、ただごとでなかった。また、校庭の砂山の陰に葉藏のおとなびた孤独な姿を見つけて、ひとしれずふかい溜息をついた。ああ、そして葉藏とはじめて言葉を交した日の歓喜。飛騨は、なんでも葉藏の真似をした。煙草を吸った。教師を笑った。両手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよい歩く法もおぼえた。芸術家のいちばんえらいわけをも知ったのである。葉藏は、美術学校へ入った。飛騨は一年おくれたが、それでも葉藏とおなじ美術学校へ入ることができた。葉藏は洋画を勉強していたが、飛騨は、わざと塑像(そぞう)科をえらんだ。ロダンのバルザツク像に感激したからだと言うのであったが、それは彼が大家になったとき、その経歴に軽いもったいをつけるための余念ない出鱈目であって、まことは葉藏の洋画に対する遠慮からであった。引け目からであった。そのころになって、ようやく二人のみちがわかれ始めた。葉藏のからだは、いよいよ痩せていったが、飛騨は、少しずつ太った。ふたりの懸隔(けんかく)はそれだけでなかった。葉藏は、ある直截な哲学に心をそそられ、芸術を馬鹿にしだした。飛騨は、また、すこし有頂天になりすぎていた。聞くものが、かえってきまりのわるくなるほど、芸術という言葉を連発するのであった。つねに傑作を夢みつつ、勉強を怠っていた。そうしてふたりとも、よくない成績で学校を卒業した。葉藏は、ほとんど絵筆を投げ捨てた。絵画はポスターでしかないものだ、と言っては、飛騨をしょげさせた。すべての芸術は社会の経済機構から放たれた屁である。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言って飛騨をけむに巻くのであった。飛騨は、むかしに変らず葉藏を好いていたし、葉藏のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じていたが、しかし飛騨にとって、傑作のときめきが、何にもまして大きかったのである。いまに、いまに、と考えながら、ただソファーソファーと粘土をいじくっていた。つまり、この二人は芸術家であるよりは、芸術品である。いや、それだからこそ、僕もこうしてやすやすと叙述(じょじゅつ)できたのであろう。ほんとの市場の芸術家をお目にかけたら、諸君は、三行読まぬうちにゲロを吐くだろう。それは保証する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。
 飛騨もまた葉藏の顔を見られなかった。できるだけ器用に忍びあしを使い、葉藏の枕元まで近寄っていったが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めているだけであった。
 葉藏は、眼をひらいてうす笑いながら声をかけた。「おどろいたろう。」
 びっくりして、葉藏の顔をちらと見たが、すぐ眼を伏せて答えた。「うん。」
「どうして知ったの?」
 飛騨はためらった。右手をズボンのポケツトから抜いてひろい顔を撫でまわしながら、眞野へ、言ってもよいか、と眼でこっそり尋ねた。眞野はまじめな顔をしてかすかに首を振った。
「新聞に出ていたのかい?」
「うん。」ほんとは、ラジオのニュースで知ったのである。
 葉藏は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思った。もっとうち解けてくれてもよいと思った。一夜あけたら、もんどり打って、おのれを異国人扱いにしてしまったこの十年来の友が憎かった。葉藏は、ふたたび眠ったふりをした。
 飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリツパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく葉藏の枕元に立っていた。
 ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な大学生が、ひょっくりその美しい顔を出した。飛騨はそれを見つけて、唸るほどほっとした。頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追いはらいながら、わざとゆったりした歩調でドアのほうへ行った。
「いま着いたの?」
「そう。」小菅は、葉藏のほうを気にしつつ、せきこんで答えた。
 小菅というのである。この男は、葉藏と親戚であって、大学の法科に籍を置き、葉藏とは三つも歳が違うのだけれど、それでも、へだてない友だちであった。あたらしい青年は、年齡にあまり拘泥(こうでい)せぬようである。冬休みで故郷へ帰っていたのだが、葉藏のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで来たのであった。ふたりは廊下へ出て立ち話をした。
「煤がついているよ。」
 飛騨は、おおっぴらにげらげら笑って、小菅の鼻の下を指さした。列車の煤煙が、そこにうつすりこびりついていた。
「そうか。」小菅は、あわてて胸のポケツトからハンカチを取りだし、さっそく鼻の下をこすった。「どうだい。どんな具合だい。」
「大庭か? 大丈夫らしいよ。」
「そうか。――落ちたかい。」鼻の下をぐっとのばして飛騨に見せた。
「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大変な騒ぎだろう。」
 ハンカチを胸のポケツトにつっこみながら返事した。「うん。大騒ぎさ。葬儀みたいだったよ。」
「うちから誰か来るの?」
「兄さんが来る。親爺さんは、ほっとけ、と言ってる。」
「大事件だなあ。」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。
「葉ちゃんは、ほんとに、よいのか。」
「案外、平気だ。あいつは、いつもそうなんだ。」
 小菅は浮かれてでもいるように口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな気持ちだろうな。」
「わからん。――大庭に逢ってみないか。」
「いいよ。逢ったって、話しすることもないし、それに、――こわいよ。」
 ふたりは、低く笑いだした。
 眞野が病室から出て来た。
「聞えています。ここで立ち話をしないようにしましょうよ。」
「あ。そいつあ。」
 飛騨は恐縮して、大きいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議そうなおももちで眞野の顔を覗いていた。
「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」
「まだです。」ふたり一緒に答えた。
 眞野は顔を赤くして噴きだした。
 三人がそろって食堂へ出掛けてから、葉藏は起きあがった。雨にけむる沖を眺めたわけである。
「ここを過ぎて空濛(くうもう)の淵(ふち)。」
 それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市(まち)。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎(えいたん)を、栄ある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとて、僕は心弱くそれを抹殺する気はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕の今日までの生活を消すことだ。


「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」
 この言葉は間が抜けて、よい。小菅がそれを言ったのである。したり顔にそう言って、ミルクの茶碗を持ち直した。
 四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勳章を胸に三つ附けた肖像画が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテーブルがそのしたにひっそり並んでいた。食堂は、がらんとしていた。飛騨と小菅は、東南の隅のテーブルに座り、食事をとっていた。
「ずいぶん、はげしくやっていたよ。」小菅は声をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまわっていたのでは、死にたくもなるよ。」
「行動隊のキャップだろう。知っている。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかえしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶったのではない。左翼の用語ぐらい、そのころの青年なら誰でも知っていた。「しかし、――それだけでないさ。芸術家はそんなにあっさりしたものでないよ。」
 食堂は暗くなった。雨がつよくなったのである。
 小菅はミルクをひとくち飲んでから言った。「君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客観的な大きい原因がひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまっていたが、僕は、そうでないと言って置いた。女はただ、みちづれさ。別な大きい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、変なことを言う。いかんぞ。」
 飛騨は、あしもとの燃えているストーブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあったのだよ。」
 ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は応じた。「知ってるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちゃんにとっては、屁でもないことさ。女に亭主があったから、心中するなんて、甘いじゃないか。」言い張ってから、頭の上の肖像画を片眼つぶって狙って眺めた。「これが、ここの院長かい。」
「そうだろう。しかし、――ほんとうのことは、大庭でなくちゃわからんよ。」
「それはそうだ。」小菅は気軽く同意して、きょろきょろあたりを見まわした。「寒いなあ。君は、今日ここへ泊まるかい。」
 飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯いた。「泊まる。」
 青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいうれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、争いを嫌がるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言を
さえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交わしているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!
 さて、僕の小説も、ようやくぼけて来たようである。ここらで一轉(いってん)、パノラマ式の数齣を展開させるか。大きいことを言うでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。


 あくる朝は、なごやかに晴れていた。海は凪いで、大島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼっていた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ。
 イ号室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であった。付き添いの看護婦と、おはようを言い交わし、すぐ朝の体温を計った。六度四分あった。それから、食前の日光浴をしにベランダへ出た。看護婦にそっと横腹を小突かれるさきから、もはや、ニ号室のベランダを盗み見していたのである。昨日の新患者は、紺絣(こんがすり)の袷(あわせ)をきちんと着て籐椅子(とういす)に座り、海を眺めていた。まぶしそうにふとい眉をひそめていた。そんなによい顔とも思えなかった。ときどき頬のガーゼを手の甲でかるく叩いていた。日光浴用の寝台に横になって、薄目あけつつそれだけを観察してから、看護婦に本を持って来させた。ボヴァリー夫人。ふだんはこの本を退屈がって、五六頁も読むと投げ出してしまったものであるが、今日は本気に読みたかった。いま、これを読むのは、いかにもふさわしげであると思った。ぱらぱらとページを繰り、百頁のところあたりから読み始めた。よい一行を拾った。「エンマは、炬火(たいまつ)の光で、真夜中に嫁入りしたいと思った。」
 ロ号室の患者も、眼覚めていた。日光浴をしにベランダへ出て、ふと葉藏の姿を見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かった。すぐベッドへもぐり込んでしまったのである。付き添いの母親は、笑いながら毛布をかけてやった。ロ号室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話声に耳傾けた。
「美人らしいよ。」それからしのびやかな笑い声が。
 飛騨と小菅が泊っていたのである。その隣の空いていた病室のひとつベッドにふたりで寝た。小菅がさきに眼を覚まし、その細ながい眼をしぶくあけてベランダへ出た。葉藏のすこし気取ったポーズを横眼でちらと見てから、そんなポーズをとらせたもとを捜しに、くるつと左へ首をねじむけた。いちばん端のベランダで若い女が本を読んでいた。女の寝台の背景は、苔のある濡れた石垣であった。小菅は、西洋ふうに肩をきゅっとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠っている飛騨をゆり起した。
「起きろ。事件だ。」彼等は事件を捏造することを喜ぶ。「葉ちゃんの大ポーズ。」
 彼等の会話には、「大」という形容詞がしばしば用いられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる対象が欲しいからでもあろう。
 飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ。」
 小菅は笑いながら教えた。
「少女がいるのだ。葉ちゃんが、それへ得意の横顔を見せているのさ。」
 飛騨もはしゃぎだした。両方の眉を大げさにぐっと上へはねあげて尋ねた。「美人か?」
「美人らしいよ。本の嘘読みをしている。」
 飛騨は噴きだした。ベッドに腰かけたまま、ジャケットを着て、ズボンをはいてから、叫んだ。
「よし、とっちめてやろう。」とっちめるつもりはないのである。これはただ陰口だ。彼等は親友の陰口をさえ平気で吐く。その場の調子にまかせるのである。「大庭のやつ、世界中の女をみんな欲しがっているんだ。」
 すこし経って、葉藏の病室から大勢の笑い声がどっとおこり、その病棟の全部にひびき渡った。イ号室の患者は、本をぱちんと閉じて、葉藏のベランダの方をいぶかしげに眺めた。ベランダには朝日を受けて光っている白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もいなかった。その籐椅子を見つめながらうつろうつらまどろんだ。ロ号室の患者は、笑い声を聞いて、ふっと毛布から顔を出し、枕元に立っている母親とおだやかな微笑を交した。ヘ号室の大学生は、笑い声で眼を覚ました。大学生には、付き添いのひともなかったし、下宿屋住まいのような、のんきな暮しをしているのであった。笑い声は昨日の新患者の部屋からなのだと気づいて、その蒼黒い顔をあからめた。笑い声を不謹愼とも思わなかった。回復期の患者に特有の寛大な心から、むしろ葉藏の元気のよいらしいのに安心したのである。
 僕は三流作家でないだろうか。どうやらうっとりしすぎたようである。パノラマ式などと柄でもないことを企て、とうとうこんなにやに下がった。いや、待ちたまえ。こんな失敗もあろうかと、まえもって用意していた言葉がある。美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。つまり僕の、こんなにうっとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ悪魔的でないからである。ああ、この言葉を考え出した男に幸いあれ。なんという重宝な言葉であろう。けれども作家は、一生涯のうちにたった一度しかこの言葉を使われぬ。どうもそうらしい。一度は、愛嬌である。もし君が、二度三度とくりかえして、この言葉を楯にとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。


「失敗したよ。」
 ベッドのそばのソファーに飛騨と並んで座っていた小菅は、そう言いむすんで、飛騨の顔と、葉藏の顔と、それから、ドアに寄りかかって立っている眞野の顔とを、順々に見まわし、みんな笑っているのを見届けてから、満足げに飛騨のまるい右肩へぐったり頭をもたせかけた。彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪(どんらん)な美食主義のはかない片鱗(へんりん)ではなかろうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑い崩れながらも、おのれの姿勢を気にしている。彼等はまた、よくひとを笑わす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑わせたがるのだ。それはいずれ例の虚無の心から発しているのであろうが、しかし、そのもういちまい底になにか思いつめた気構えを推察できないだろうか。犧牲の魂。いくぶんなげやりであって、これぞという目的をも持たぬ犧牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかってさえ美談と言い得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこの隠された魂のゆえである。これらは僕の独断である。しかも書斎のなかの摸索でない。みんな僕自身の肉体から聞いた思念(しねん)ではある。
 葉藏は、まだ笑っている。ベッドに腰かけて両脚をぶらぶら動かし、頬のガーゼを気にしいしい笑っていた。小菅の話がそんなにおかしかったのであろうか。彼等がどのような物語にうち興ずるかの一例として、ここへ数行を挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかのある名高い温泉場へスキーをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、便所へ行く途中、廊下で同宿の若い女とすれ違った。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、ちょっとすれ違っただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を与えてやらなければ気がすまぬのである。別にどうしようというあてもないのだが、そのすれ違った瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポーズを作る。人生へ本気になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる経緯を瞬間のうちに考えめぐらし、胸のはりさける思いをする。彼等は、そのような息詰まる瞬間を、少なくとも一日にいちどは経驗する。だから彼等は油断をしない。ひとりでいるときにでも、おのれの姿勢を飾っている。小菅が、深夜、便所へ行ったそのときでさえ、おのれの新調の青い外套(がいとう)をきちんと着て廊下へ出たという。小菅がその若い女とすれ違ったあとで、しみじみ、よかったと思った。外套(がいとう)を着て出てよかったと思った。ほっと溜息ついて、廊下のつきあたりの大きい鏡を覗いてみたら、失敗であった。外套(がいとう)の下から薄汚い股引(ももひき)をつけた両脚がにょきっと出ている。
「いやはや、」さすがに軽く笑いながら言うのであった。「股引はねじくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えているのさ。顔は寝ぶくれにふくれて。」
 葉藏は、内心そんなに笑ってもいないのである。小菅のつくりばなしのようにも思われた。それでも大声で笑ってやった。友が昨日に変わって、葉藏へ打ち解けようと努めてくれる、その気ごころに対する返礼のつもりもあって、ことさらに笑いこけてやったのである。葉藏が笑ったので、飛騨も眞野も、ここぞと笑った。
 飛騨は安心してしまった。もうなんでも言えると思った。まだまだ、と抑えたりした。ぐずぐずしていたのである。
 調子に乗った小菅が、かえって易々と言ってのけた。
「僕たちは、女じゃ失敗するよ。葉ちゃんだってそうじゃないか。」
 葉藏は、まだ笑いながら、首を傾けた。
「そうかなあ。」
「そうさ。死ぬてはないよ。」
「失敗かなあ。」
 飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであろうと、この年少の友をぎゅっと抱いてやりたい衝動を感じた。
 飛騨は、うすい眉をはればれとひらき、吃りつつ言いだした。
「失敗かどうかは、ひとくちに言えないと思うよ。だいいち原因が判らん。」まずいなあ、と思った。
 すぐ小菅が助けてくれた。「それは判ってる。飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思うよ。飛騨はこいつ、もったいぶってね、他にある、なんて言うんだ。」間髮をいれず飛騨は応じた。「それもあるだろうが、それだけじゃないよ。つまり惚れていたのさ。いやな女と死ぬはずがない。」
 葉藏になにも臆測されたくない心から、言葉を選ばずに急いで言ったのであるが、それはかえっておのれの耳にさえ無邪気にひびいた。大出来(おおでき)だ、とひそかにほっとした。
 葉藏は長い睫(まつげ)を伏せた。虚傲(きょごう)。懶惰(らんだ)。阿諛(鮎)。狡猾(こうかつ)。悪徳の巣。疲勞(ひろう)。忿怒(ふんぬ)。殺意。我利我利(がりがり)。脆弱。欺瞞(ぎまん)。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶった。言ってしまはうかと思った。わざとしよげかえって呟いた。
「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。」
「判る。判る。」小菅は葉藏の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がいないよ。気をきかせたのかしら。」
 僕はまえにも言いかけて置いたが、彼等の議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのえるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきが感じられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉藏はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうつかり吐いてしまった本音ではなかろうか。彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。あるいは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風にでも震えおののく。侮辱を受けたと思いこむやいなや、死なんやと悶(もだ)える。葉藏がおのれの自殺の原因をたずねられて当惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。


 その日の昼すぎ、葉藏の兄が青松園についた。兄は、葉藏に似てないで、立派にふとっていた。袴をはいていた。
 院長に案内され、葉藏の病室の前まで来たとき、部屋のなかの陽気な笑い声を聞いた。兄は知らぬふりをしていた。
「ここですか?」
「ええ。もう御元気です。」院長は、そう答えながらドアを開けた。
 小菅がおどろいて、ベッドから飛びおりた。葉藏のかわりに寝ていたのである。葉藏と飛騨とは、ソファーに並んで腰かけて、トランプをしていたのであったが、ふたりともいそいで立ちあがった。眞野は、ベッドの枕元の椅子に座って編物をしていたが、これも、間がわるそうにもじもじと編物の道具をしまいかけた。
「お友だちが来て下さいましたので、賑やかです。」院長はふりかえって兄へそう囁きつつ、葉藏のそばへあゆみ寄った。「もう、いいですね。」
「ええ。」そう答えて、葉藏は急にみじめな思いをした。
 院長の眼は、眼鏡の奧で笑っていた。
「どうです。サナトリウム生活でもしませんか。」
 葉藏は、はじめて罪人のひけ目を覚えたのである。ただ微笑をもって答えた。
 兄はその間に、几帳面らしく眞野と飛騨へ、お世話になりました、と言ってお辞儀をして、それから小菅へ眞面目な顔で尋ねた。「ゆうべは、ここへ泊まったって?」
「そう。」小菅は頭を掻き掻き言った。「となりの病室があいていましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらいました。」
「じゃ今夜から私の旅籠(はたご)へ来たまえへ。江の島に旅籠(はたご)をとっています。飛騨さん、あなたも。」
「はあ。」飛騨はかたくなっていた。手にしている三枚のトランプを持てあましながら返事した。
 兄は、なんでもなさそうにして葉藏のほうを向いた。
「葉藏、もういいか。」
「うん。」ことさらに、にがり切って見せながら頷いた。
 兄は、にわかに饒舌になった。
「飛騨さん。院長先生のお供をして、これからみんなで昼飯食べに出ましょうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただこうと思って。すぐ、出掛けましょう。自動車を待たせてあるのです。よいお天気だ。」
 僕は後悔している。二人のおとなを登場させたばかりに、すっかり滅茶滅茶である。葉藏と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかってせっかくよい具合に盛り上げた、いっぷう変った雰囲気も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰囲気のロマンスにしたかったのである。はじめの数頁でぐるぐる渦を巻いた雰囲気をつくって置いて、それを少しずつのどかにに解きほぐして行きたいと祈っていたのであった。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて来た。しかし、土崩瓦解(どほうがかい)である。
 許してくれ! 嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰囲気のロマンスなぞということが気はずかしくなって来て、僕がわざとぶちこはしたまでのことなのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思う壺だ。悪趣味。いまになって僕の心をくるしめているのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつっこい好みをそう呼ぶのなら、あるいは僕のこんな態度も悪趣味であろう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかったのだ。しかし、それは、はかない努力であろう。あ! 作家はみんなこういうものであろうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなかろうか。ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。
 なにもかもさらけ出す。ほんとうは、僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもって、こつそり特異なニュアンスを作品にもりたかったのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞえていたはずである。できれば僕は、もすこしあとでそれを言いたかった。いや、この言葉をさえ、僕ははじめから用意していたような気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな。
 僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家(しんしんさっか)としての栄光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気を抜きにして答えろ。どっちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いている。このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐。」
 つぎの描写へうつろう。僕は市場の芸術家である。芸術品ではない。僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニュアンスをもたらしてくれたら、それはもっけのさいわいだ。


 葉藏と眞野とがあとに残された。葉藏は、ベッドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考えごとをしていた。眞野はソファーに座って、トランプを片づけていた。トランプの札を紫の紙箱におさめてから、言った。
「お兄さまでございますね。」
「ああ、」たかい天井の白壁を見つめながら答えた。「似ているかな。」
 作家がその描写の対象に愛情を失うと、てきめんにこんなだらしない文章をつくる。いや、もう言うまい。なかなか乙な文章だよ。
「ええ。鼻が。」
 葉藏は、声をたてて笑った。葉藏のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かったのである。
「おいくつでいらっしゃいます。」眞野も少し笑って、そう尋ねた。
「兄貴か?」眞野のほうへ顔をむけた。「若いのだよ。三十四さ。大きく構えて、いい気になっていやがる。」
 眞野は、ふっと葉藏の顔を見あげた。眉をひそめて話しているのだ。あわてて眼を伏せた。
「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺(おやじ)が。」
 言いかけて口を噤(つぐ)んだ。葉藏はおとなしくしている。僕の身代りになって、妥協しているのである。
 眞野は立ちあがって、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行った。もとのように、また葉藏の枕元の椅子に座り、編物をはじめながら、眞野もまた考えていた。思想でもない、恋愛でもない、それより一歩手前の原因を考えていた。
 僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。ほんとうに大切なことがらには、僕はまだちっとも触れていないような気がする。それは当たり前であろう。たくさんのことを言い落している。それも当たり前であろう。作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の効果を期待した僕は馬鹿であった。ことにその効果を口に出してなど言うべきでなかった。口に出して言ったとたんに、また別のまるっきり違った効果が生まれる。その効果をおよそこうであろうと推察したとたんに、また新しい効果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりいなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでない出来栄えか、僕はそれをさえ知ろうと思うまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思いも及ばぬたいへんな価値を生むことであろう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉体からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい気にもなるのであろう。はっきり言えば、僕は自信をうしなっている。


 電気がついてから、小菅がひとりで病室へやって来た。入るとすぐ、寝ている葉藏の顔へおつかぶさるようにして囁(ささや)いた。
「飲んで来たんだ。眞野へ内緒だよ。」
 それから、はっと息を葉藏の顔へつよく吐きつけた。酒を飲んで病室へ出はいりすることは禁じられていた。
 うしろのソファーで編物をつづけている眞野をちらと横眼つかって見てから、小菅は叫ぶようにして言った。「江の島をけんぶつして来たよ。よかったなあ。」そしてすぐまた声をひくめてささやいた。
「嘘だよ。」
 葉藏は起きあがってベッドに腰かけた。
「いままで、ただ飲んでいたのか。いや、構わんよ。眞野さん、いいでしょう?」
 眞野は編物の手をやすめずに、笑いながら答えた。「よくもないんですけれど。」
 小菅はベッドの上へ仰向にころがった。
「院長と四人して相談さ。君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ。」
 葉藏はだまっていた。
「あす、兄さんと飛騨が警察へ行くんだ。すっかりかたをつけてしまうんだって。飛騨は馬鹿だなあ。興奮していやがった。飛騨は、今日向こうへ泊まるよ。僕は、いやだから帰った。」
「僕の悪口を言っていたろう。」
「うん。言っていたよ。大馬鹿だと言ってる。この後も、なにをしでかすか、判ったものじゃないと言ってた。しかし親爺もよくない、と付け加えた。眞野さん、煙草を吸ってもいい?」
「ええ。」涙が出そうなのでそれだけ答えた。
「波の音が聞えるね。――よき病院だな。」小菅は火のついてない煙草をくわえ、酔っ払いらしく荒い息をしながらしばらく眼をつぶっていた。やがて、上体をむっくり起した。「そうだ。着物を持って来たんだ。そこへ置いたよ。」顎でドアの方をしゃくった。
 葉藏は、ドアのそばに置かれてある唐草の模様がついた大きい風呂敷包みに眼を落し、やはり眉をひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌(めんぼう)をつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言えば財産という単語を思い出すのには変りがないようだ。「おふくろには、かなわん。」
「うん、兄さんもそう言ってる。お母さんがいちばん可哀想だって。こうして着物の心配までしてくれるのだからな。ほんとうだよ、君。――眞野さん、マッチない?」眞野からマッチを受け取り、その箱に画かれてある馬の顔を頬ふくらませて眺めた。「君のいま着ているのは、院長から借りた着物だってね。」
「これか? そうだよ。院長の息子の着物さ。――兄貴は、その他にも何か言ったろうな。僕の悪口を。」
「ひねくれるなよ。」煙草へ火を点じた。「兄さんは、わりに新しいよ。君を判っているんだ。いや、そうでもないかな。苦労人ぶるよ、なかなか。君の、こんどのことの原因を、みんなで言い合ったんだが、そのときにね、大笑いさ。」けむりの輪を吐いた。「兄さんの推測としてはだよ、これは葉藏が放蕩(ほうとう)をして金に窮したからだ。大真面目で言うんだよ。それとも、これは兄として言いにくいことだが、きっと恥かしい病気にでもかかって、やけくそになったのだろう。」酒でどろんと濁った眼を葉藏にむけた。「どうだい。いや、案外こいつ。」


 今宵は泊まるのが小菅ひとりであるし、わざわざ隣の病室を借りるにも及ぶまいと、みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寝ることにきめた。小菅は葉藏とならんでソファーに寝た。緑色の天鵞絨(びろうど)が張られたそのソファーには、仕掛けがされてあって、あやしげながらベッドにもなるのであった。眞野は毎晩それに寝ていた。今日はその寝床を小菅に奪はれたので病院の事務室から薄縁(うすべり)を借り、それを部屋の西北の隅に敷いた。そこはちょうど葉藏の足の真下あたりであった。それから眞野は、どこから見つけて来たものか、二枚折のひくい屏風(びょうぶ)でもってそのつつましい寝所をかこったのである。
「用心ぶかい。」小菅は寝ながら、その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑った。「秋の七草がかかれてあるよ。」
 眞野は、葉藏の頭の上の電燈(でんとう)を風呂敷で包んで暗くしてから、おやすみなさいを二人に言い、屏風のかげにかくれた。
 葉藏は寝ぐるしい思いをしていた。
「寒いな。」ベッドの上で寝返りをした。
「うん。」小菅も口をとがらせて相槌をうった。「酔いがさめちゃった。」
 眞野は軽くせきをした。「なにかお掛けいたしましょうか。」
 葉藏は眼をつむって答えた。
「僕か? いいよ。寝ぐるしいんだ。波の音が耳について。」
 小菅は葉藏を不憫だと思った。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないことだろうけれど、不憫なのはここにいるこの葉藏ではなしに、葉藏とおなじ身の上にあったときの自分、もしくはその身の上の一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのような安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、まず好意的に言って、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは、いったいどこから覚えこんだものか。このようなくだらない小説から?
「眞野さん、なにか話を聞かせてよ。面白い話がない?」
 葉藏の気持ちを転換させてやろうというおせつかいから、小菅は眞野へ甘ったれた。
「さあ。」眞野は屏風のかげから、笑い声と一緒にただそう答えてよこした。
「すごい話でもいいや。」彼等はいつも、戰慄(せんりつ)したくてうずうずしている。
 眞野は、なにか考えているらしく、しばらく返事をしなかった。
「秘密ですよ。」そう前置きをして、声しのばせて笑いだした。「怪談でございますよ。小菅さん、大丈夫?」
「ぜひ、ぜひ。」本気だった。
 眞野が看護婦になりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺をはかった青年が、発見されて、ある病院に収容され、それへ眞野が付き添った。患者は薬品をもちいているのであった。からだ一面に、紫色の斑点がちらばっていた。助かる見込がなかったのである。夕方いちど、意識を回復した。そのとき患者は、窓のそとの石垣を傳ってあそんでいるたくさんの小さい磯蟹(いそがに)を見て、きれいだなぁ、と言った。その辺の蟹は生きながらに甲羅が赤いのである。治ったら捕(と)って家へ持って行くのだ、と言い残してまた意識をうしなった。その夜、患者は洗面器へ二杯、吐きものをして死んだ。国元から身うちのものが来るまで、眞野はその病室に青年とふたりでいた。一時間ほどは、がまんして病室のすみの椅子に座っていた。うしろに幽(かす)かな物音を聞いた。じつとしていると、また聞えた。こんどは、はっきり聞えた。足音らしいのである。思い切って振りむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がいた。眞野はそれを見つめつつ、泣きだした。
「不思議ですわねえ。ほんとうに蟹がいたのでございますの。生きた蟹。私、そのときは、看護婦をよそうと思いましたわ。私がひとり働かなくても、うちではけっこう暮してゆけるのですし。お父さんにそう言って、うんと笑われましたけれど。――小菅さん、どう?」
「すごいよ。」小菅は、わざとふざけたようにして叫ぶのである。「その病院ていうのは?」
 眞野はそれに答えず、ごそもそと寝返りをうって、ひとりごとのように呟いた。
「私ね、大庭さんのときも、病院からの呼び出しを断ろうかと思いましたのよ。こわかったですからねえ。でも、来て見て安心しましたわ。この通りのお元気で、はじめから御不淨(ごふじょう)へ、ひとりで行くなんておっしゃるんでございますもの。」
「いや、病院さ。ここの病院じゃないかね。」
 眞野は、すこし間を置いて答えた。
「ここです。ここなんでございますのよ。でも、それは秘密にして置いて下さいましね。信用に関わりましょうから。」
 葉藏は寝とぼけたような声を出した。「まさか、この部屋じゃないだろうな。」
「いいえ。」
「まさか、」小菅も口真似した。「僕たちがゆうべ寝たベッドじゃないだろうな。」
 眞野は笑いだした。
「いいえ。大丈夫でございますわよ。そんなにお気になさるんだったら、私、言わなければよかった。」
「イ号室だ。」小菅はそっと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。イ号室だ。君、少女のいる部屋だよ。可哀想に。」
「お騒ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話なんですよ。」
 葉藏は別なことを考えていた。園の幽霊を思っていたのである。美しい姿を胸に画いていた。葉藏は、しばしばこのようにあっさりしている。彼等にとって神という言葉は、間の抜けた人物に与えられる揶揄(やゆ)と好意の混じったなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近しているからかも知れぬ。こんな具合に軽々しく所謂(いわゆる)「神の問題」にふれるなら、きっと諸君は、浅薄(せんぱく)とか安易とかいう言葉でもってきびしい非難をするであろう。ああ、許したまえ。どんなまずしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがっているものだ。されば、言おう。彼こそ神に似ている。寵愛(ちょうあい)の鳥、梟(ふくろう)を黄昏(たそがれ)の空に飛ばしてこっそり笑って眺めている知恵の女神のミネルヴァに。


 あくる日、朝から療養院がざわめいていた。雪が降っていたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松(そなれまつ)がいちように雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづくにも、雪がうすく積っていた。降ったりやんだりしながら、雪は昼頃までつづいた。
 葉藏は、ベッドの上で腹這いになり、雪の景色をスケッチしていた。木炭紙と鉛筆を眞野に買わせて、雪のまったく降りやんだころから仕事にかかったのである。
 病室は雪の反射であかるかった。小菅はソファーに寝ころんで、雑誌を読んでいた。ときどき葉藏の画を、首筋伸ばして覗いた。芸術というものに、ぼんやりした畏敬を感じているのであった。それは、葉藏ひとりに対する信頼から起った感情である。小菅は幼いときから葉藏を見て知っていた。いっぷう変わっていると思っていた。一緒に遊んでいるうちに、葉藏のその変りかたをすべて頭のよさであると独断してしまった。おしゃれで嘘のうまい好色な、そして残忍でさえあった葉藏を、小菅は少年のころから好きだったのである。殊(こと)に学生時代の葉藏が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるような瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがって、観賞の態度であった。つまり利巧(りこう)だったのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがえしてそば観する。これが小菅の、葉藏や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであろう。小菅が芸術をいささかでも畏敬しているとすれば、それは、れいの青い外套(がいとう)を着て身じまいをただすのとそっくり同じ意味であって、この白昼つづきの人生になにか期待の対象を感じたい心からである。葉藏ほどの男が、汗みどろになって作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいないただ軽くそう思っている。その点、やはり葉藏を信頼しているのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅が葉藏のスケッチを盗み見しながらも、がっかりしている。木炭紙に画かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。
 小菅は断念して、雑誌の講談に読みふけった。病室は、ひっそりしていた。
 眞野は、いなかった。洗濯場で、葉藏の毛のシャツを洗っているのだ。葉藏は、このシャツを着て海へ入った。磯の香がほのかにしみこんでいた。
 午後になって、飛騨が警察から帰って来た。いきおい込んで病室のドアをあけた。
「やあ、」葉藏がスケッチしているのを見て、大袈裟に叫んだ。「やってるな。いいよ。芸術家は、やっぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」
 そう言いつつベッドへ近寄り、葉藏の肩越しにちらと画を見た。葉藏は、あわててその木炭紙を二つに折ってしまった。それを更にまた四つに折り疊みながら、はにかむようにして言った。
「駄目だよ。しばらく画かないでいると、頭ばかり先になって。」
 飛騨は外套(がいとう)を着たままで、ベッドの裾へ腰かけた。
「そうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。芸術に熱心だからなのだ。まあ、そう思うんだな。――いったい、どんなのを画いたの?」
 葉藏は頬杖ついたまま、硝子戸(がらすど)のそとの景色を顎でしゃくった。
「海を画いた。空と海がまっくろで、島だけが白いのだ。画いているうちに、きざな気がしてよした。趣向がだいいち素人くさいよ。」
「いいじゃないか。えらい芸術家は、みんなどこか素人くさい。それでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人になって、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさを狙った男だ。いや、そうでもないかな。」
「僕は画をよそうと思うのだ。」葉藏は折り畳んだ木炭紙を懐にしまいこんでから、飛騨の話へおっかぶせるようにして言った。「画は、まだるっこくていかんな。彫刻だってそうだよ。」
 飛騨は長い髮を掻きあげて、たやすく同意した。「そんな気持ちもわかるな。」
「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな。」
「うん。詩も、いいよ。」
「しかし、やっぱりつまらないかな。」なんでもかでもつまらなくしてやろうと思った。「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をもうけて、飛騨みたいなよい芸術家をたくさん集めて、可愛がってやるのだ。それは、どうだろう。芸術なんて、恥かしくなった。」やはり頬杖ついて海を眺めながら、そう言い終えて、おのれの言葉の反応をしずかに待った。
「わるくないよ。それも立派な生活だと思うな。そんなひともなくちゃいけないね。じっさい。」言いながら飛騨は、よろめいていた。なにひとつ反駁(はんばく)できぬおのれが、さすがに幇間(ほうかん)じみているように思われて、いやであった。彼の所謂(いわゆる)、芸術家としての誇りは、ようやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構えた。このつぎの言葉を!
「警察のほうは、どうだったい。」
 小菅がふいと言い出した。当たらず障らずの答えを期待していたのである。
 飛騨の動揺はその方へはけぐちを見つけた。
「起訴さ。自殺幇助罪(じさつほうじょざい)という奴だ。」言ってから悔いた。ひどすぎたと思った。「だが、けっきょく、起訴猶予になるだろうよ。」
 小菅は、それまでソファーに寝そべっていたのをむっくり起きあがって、手をピシャっとうった。「やっかいなことになったぞ。」茶化してしまおうと思ったのである。しかし駄目であった。
 葉藏はからだを大きく捻って、仰向になった。
 ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると憤懣(ふんまん)を感じていたらしい諸君は、ここにいたってはじめて快哉(かいさい)を叫ぶだろう。ざまあ見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判ってくれたならば!
 飛騨はおのれの一言の効果におろおろして、葉藏の足を蒲團(ふとん)の上から軽く叩いた。
「大丈夫だよ。大丈夫だよ。」
 小菅は、またソファーに寝ころんだ。
「自殺幇助罪か。」なおもつとめてはしゃぐのである。「そんな法律もあったかなあ。」
 葉藏は足を引っ込めながら言った。
「あるさ。懲役ものだ。君は法科の学生のくせに。」
 飛騨は、かなしく微笑んだ。
「大丈夫だよ。兄さんが、うまくやっているよ。兄さんは、あれで、有難いところがあるな。とても熱心だよ。」
「やりてだ。」小菅はおごそかに眼をつぶった。「心配しなくてよいかも知れんな。なかなかの策士だから。」
「馬鹿。」飛騨は噴きだした。
 ベッドから降りて外套(がいとう)を脱ぎ、ドアのわきの釘へそれを掛けた。
「よい話を聞いたよ。」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢にまたがって言った。「女のひとの連れ合いがねえ、」すこし躊躇してから、眼を伏せて語りつづけた。「そのひとが、今日警察へ来たんだ。兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちょっと打たれたよ。金は一文も要らないただその男のひとに逢ひたい、と言うんだそうだ。兄さんは、それを断った。病人はまだ興奮しているから、と言って断った。するとそのひとは、情けない顔をして、それでは弟さんによろしく言ってくれ、私たちのことは気にかけず、からだを大事にして、――」口を噤(つぐ)んだ。
 おのれの言葉に胸がわくわくして来たのである。その連れ合いのひとが、いかにも失業者らしくまずしい身なりをしていたと、軽侮(けいぶ)のうす笑いをさえまざまざ口角に浮べつつ話して聞かせた葉藏の兄へのこらえにこらえた鬱憤(うっぷん)から、ことさらに誇張をまじえて美しく語ったのであった。
「逢わせればよいのだ。要らないおせっかいをしやがる。」葉藏は、右の掌を見つめていた。
 飛騨は大きいからだをひとつゆすった。
「でも、――逢わないほうがいいんだ。やっぱり、このまま他人になってしまったほうがいいんだ。もう東京へ帰ったよ。兄さんが停車場まで送って行って来たのだ。兄さんは二百圓の香典をやったそうだよ。これからはなんの関係もない、という証文(しょうもん)みたいなものも、そのひとに書いてもらったんだ。」
「やりてだなあ。」小菅は薄い下唇を前へ突きだした。「たった二百圓か。たいしたものだよ。」
 飛騨は、炭火のほてりでてらてら油光(あぶらひか)りしだした丸い顔を、けわしくしかめた。彼等は、おのれの陶酔に水をさされることを極端に恐れる。それゆえ、相手の陶酔をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあいだの黙契(もっけい)である。小菅はいまそれを破っている。小菅には、飛騨がそれほど感激しているとは思えなかったのだ。その連れ合いのひとの弱さが歯がゆかったし、それへつけこむ葉藏の兄も兄だ、と相変らずの世間の話として聞いていたのである。
 飛騨はぶらぶら歩きだし、葉藏の枕元のほうへやって来た。硝子戸に鼻先をくっつけるようにして、曇天の下の海を眺めた。
「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからじゃないよ。そんなことはないと思うなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで帰ったそうだ。汽車に乗ってる姿が眼にちらつくよ。」
 小菅は、やつと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ。」
「美談だろう? いい話だろう?」飛騨は、くるつと小菅のほうへ顔をねじむけた。気嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きているよろこびを感じるのさ。」
 思い切って、僕は顔を出す。そうでもしないと、僕はこの上書きつづけることができぬ。この小説は混乱だらけだ。僕自身がよろめいている。葉藏をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する。僕は彼等の泥靴にとりすがって、待て待てとわめく。ここらで陣容を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。
 どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覚悟していた。書いているうちに、なにかひとつぐらい、むきなものが出るだろうと楽観していた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらい、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらいなにかひとつぐらいとそればかりを、あちこちひっくりかえして捜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばったのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。なんという馬鹿な。この言葉に最大級の災いあれ。うっとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらいの違った意味をもっておのれの胸へはねかえって来るようでは、ペンをへし折って捨てなければならぬ。葉藏にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく気取って見せなくてよい。どうせおさとは知れているのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。


 その夜、だいぶ更けてから、葉藏の兄が病室を訪れた。葉藏は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでいた。昨日兄がここへはじめて来たときにも、彼等はトランプをしていたはずである。けれども彼等はいちにちいっぱいトランプをいじくってばかりいるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがっている程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に発揮できないようなゲームはきっと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやって見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑う。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言う。スペードの女王。クラブの騎士。それぞれがおもいおもいに趣向こらした出鱈目を述べる。札をひらく。当ったためしのないのだが、それでもいつかはぴったり当るだろう、と彼等は考える。あたったら、どんなに愉快だろう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしていない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も来合せた。
 兄は病室へはいって来て、ちょっと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考えちがいしたのである。このような不幸は人生にままある。葉藏は美術学校時代にも、これと同じような不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合った。たしかにたった三度であった。日本有数のフランス語学者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたようにして、大声で言った。「君は、僕の時間にはあくびばかりしている。一時間に百回あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる回数を事実かぞえてみたような気がしているらしかった。
 ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いている。更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いったいこれは、どんな小説になるのだろう。はじめから読み返してみよう。
 僕は、海浜の療養院を書いている。この辺は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて悪人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むずかしい理屈はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張しているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる。なにも言うな。
 兄は、みんなに軽く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなずいて、小菅と眞野へ目くばせした。
 三人が病室から出るのを待って、兄は言いだした。
「電気がくらいな。」
「うん。この病院じゃ明るい電気をつけさせないのだ。座らない?」
 葉藏がさきにソファーへ座って、そう言った。
「ああ。」兄は座らずに、くらい電球を気がかりらしくちょいちょいうり仰ぎつつ、狭い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こっちのほうだけは、片付いた。」
「ありがとう。」葉藏はそれを口のなかで言って、こころもち頭をさげた。
「私はなんとも思っていないよ。だが、これから家へ帰るとまたうるさいのだ。」今日は袴をはいていなかった。黒い羽織には、なぜか羽織紐がついてなかった。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい具合に手紙を出したほうがいい。お前たちは、のんきそうだが、しかし、めんどうな事件だよ。」
 葉藏は返事をしなかった。ソファーにちらばっているトランプの札をいちまい手にとって見つめていた。
「出したくないなら、出さなくていい。あさって、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばしてくれていたのだ。今日は私と飛騨とが証人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたずねられたから、おとなしいほうでしたと答えた。思想上になにか不審はなかったか、と聞かれて、絶対にありません。」
 兄は歩きまわるのをやめて、葉藏のまえの火鉢に立ちはだかり、大きい両手を炭火の上にかざした。葉藏はその手の細かく震えているのをぼんやり見ていた。
「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言って置いた。飛騨もだいたい同じことを尋問されたそうだ。私の答弁と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言えばいい。」
 葉藏には兄の言葉の裏が判っていた。しかし、そしらぬふりをしていた。
「要らないことは言わなくていい。聞かれたことだけをはっきり答えるのだ。」
「起訴されるのかな。」葉藏はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまわしながら低く呟いた。
「判らん。それは判らん。」語調を強めてそう言った。「どうせ四五日は警察へとめられると思うから、その用意をして行け。あさっての朝、私はここへ迎えに来る。一緒に警察へ行くんだ。」
 兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく黙った。雪解けの雫の音が波の響きに混じって聞えた。
「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言いだした。それから、なにげなさそうな口調ですらすら言いつづけた。「お前も、ずっと将来のことを考えて見ないといけないよ。家にだって、そうそう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたってなんにもならぬだろうが、うちの銀行もいま危なくなっているし、たいへんな騒ぎだよ。お前は笑うかも知れないが、芸術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考えなければいけないと思うな。まあ、これから生まれ変ったつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう帰ろう。飛騨も小菅も、私の旅籠(はたご)へ泊めるようにしたほうがいい。ここで毎晩さわいでいては、まずいことがある。」


「僕の友だちはみんなよいだろう?」
 葉藏は、わざと眞野のほうへ背をむけて寝ていた。その夜から、眞野がもとのように、ソファーのベッドへ寝ることになったのである。
「ええ。――小菅さんとおっしゃるかた、」静かに寝がえりを打った。「面白いかたですわねえ。」
「ああ。あれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがうのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり真似していやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまえだよ。しつかりしている。」しばらく間を置いて、小声で附け加へた。「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたわるのだ。僕たちにむりして調子を合せているのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ。」
 眞野は答えなかった。
「あの女のことを話してあげようか。」
 やはり眞野へ背をむけたまま、つとめてのろのろとそう言った。なにか気まずい思いをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしゃらにその気まずさを徹底させてしまはなければかなわぬ悲しい習性を葉藏は持っていた。
「くだらん話なんだよ。」眞野がなんとも言わぬさきから葉藏は語りはじめた。「もう誰かから聞いただろう。園というのだ。銀座のバーにつとめていたのさ。ほんとうに、僕はそこのバーへ三度、いや四度しか行かなかったよ。飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかったのだからな。僕も教えなかったし。」よそうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互いにまったく違ったことを考えていたらしい。園は海へ飛び込むまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがった。内縁の夫があったのだよ。二三年まえまで小学校の先生をしていたのだって。僕は、どうして、あのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだろうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだろう。「僕は、これでも左翼の仕事をしていたのだよ。ビラを撒いたり、デモをやったり、柄にないことをしていたのさ。滑稽だ。でも、ずいぶんつらかったよ。われは先覚者なりという栄光にそそのかされただけのことだ。柄じゃないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけじゃないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食うに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だろうな。」ああ、言えば言うほどおのれが嘘つきで不正直な気がして来るこの大きな不幸! 「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんとうは僕、画をかきたいのだ。むしょうにかきたいよ。」頭をごしごし掻いて、笑った。「よい画がかけたらねえ。」
 よい画がかけたらねえ、と言った。しかも笑ってそれを言った。青年たちは、むきになっては、何も言えない。ことに本音を、笑いでごまかす。


 夜が明けた。空に一抹の雲もなかった。昨日の雪はあらかた消えて、松の下かげや石の段々の隅にだけ、鼠色(ねずみいろ)して少しずつ残っていた。海には靄がいっぱい立ちこめ、その靄の奧のあちこちから漁船の発動機の音が聞えた。
 院長は朝はやく葉藏の病室を見舞った。葉藏のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言った。
「たいてい大丈夫でしょう。でも、お気をつけてね。警察のほうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんとうのからだではないのですから。眞野君、顔の絆創膏は剥いでいいだろう。」
 眞野はすぐ、葉藏のガーゼを剥ぎとった。傷はなおっていた。かさぶたさえとれて、ただ赤白い斑点になっていた。
「こんなことを申しあげると失礼でしょうけれど、これからはほんとうに御勉強なさるように。」
 院長はそう言って、はにかんだような眼を海へむけた。
 葉藏もなにやらばつの悪い思いをした。ベッドの上に座ったまま、脱いだ着物をまた着なおしながら默っていた。
 そのとき高い笑い声とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむようにしてはいって来た。みんなおはようを言い交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。
「今日いちにちです。お名残りをしいですな。」
 院長が去ってから、小菅がいちばんさきに口を切った。
「如才がないな。蛸みたいなつらだ。」彼等はひとの顔に興味を持つ。顔でもって、そのひとの全部の価値をきめたがる。「食堂にあのひとの画があるよ。勳章をつけているんだ。」
「まずい画だよ。」
 飛騨は、そう言い捨ててベランダへ出た。今日は兄の着物を借りて着ていた。茶色のどっしりした布地であった。襟もとを気にしいしいベランダの椅子に腰かけた。
「飛騨もこうして見ると、大家の風貌があるな。」小菅もベランダへ出た。「葉ちゃん。トランプしないか。」
 ベランダへ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲームを始めたのである。
 勝負のなかば、小菅は眞面目に呟いた。
「飛騨は気取ってるねえ。」
「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは。」
 三人はくっくっ笑いだし、一斉にそっと隣のベランダを盗み見た。イ号室の患者も、ロ号室の患者も、日光浴用の寝台に横たわっていて、三人の樣子に顔をあかくして笑っていた。
「大失敗。知っていたのか。」
 小菅は口を大きくあけて、葉藏へ目配せした。三人は、思いきり声をたてて笑い崩れた。彼等は、しばしばこのような道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が言い出すと、もはや葉藏も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼等は天然の美しい舞台装置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑い声は、彼等にさえ思い及ばなかったほどの大事件を生んだ。眞野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑い声が起って五分も経たぬうちに眞野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お静かになさいとずいぶんひどく叱られた。泣きだしそうにしてその部屋から飛び出し、トランプよして病室でごろごろしている三人へ、このことを知らせた。
 三人は、痛いほどしたたかにしょげて、しばらくただ顔を見合せていた。彼等の有頂天な狂言を、現実の呼びごえが、よせやいとせせら笑ってぶちこわしたのだ。これは、ほとんど致命的でさえあり得る。
「いいえ、なんでもないんです。」眞野は、かえってはげますようにして言った。「この病棟には、重症患者がひとりもいないのですし、それに昨日も、ロ号室のお母さまが私と廊下で逢ったとき、賑やかでいいとおっしゃって、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑わされてばかりいるって、そうおっしゃったわ。いいんですのよ。かまいません。」
「いや、」小菅はソファーから立ちあがった。「よくないよ。僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言わないのだ。ここへ連れて来いよ。僕たちをそんなにきらひなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院してやる。」
 三人とも、このとっさの間に、本気で退院の腹をきめた。殊(こと)にも葉藏は、自動車に乗って海浜づたいに遁走して行くはればれしき四人の姿をはるかに思った。
 飛騨もソファーから立ちあがって、笑いながら言った。「やろうか。みんなで婦長のところへ押しかけて行こうか。僕たちを叱るなんて、馬鹿だ。」
「退院しようよ。」小菅はドアをそっと蹴った。「こんなけちな病院は、面白くないや。叱るのは構わないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考えていたにちがいないのさ。頭がわるくてブルジョア臭いぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思っているんだ。」
 言い終えて、またドアをまえより少し強く蹴ってやった。それから、堪えかねたようにして噴きだした。
 葉藏はベッドへどしんと音たてて寝ころがった。「それじゃ、僕なんかは、さしずめ色白な恋愛至上主義者というようなところだ。もう、いかん。」
 彼等は、この野蛮人の侮辱に、尚もはらわたの煮えくりかえる思いをしているのだが、さびしく思い直して、それをよい加減に茶化そうと試みる。彼等はいつもそうなのだ。
 けれども眞野は率直だった。ドアのわきの壁に、両腕をうしろへまわしてよりかかり、めくれあがった上唇をことさらにきゅっと尖らせて言うのであった。
「そうなんでございますのよ。ずいぶんですわ。ゆうべだって、婦長室へ看護婦をおおぜいあつめて、歌留多なんかして大さわぎだったくせに。」
「そうだ。十二時すぎまできゃっきゃ言っていたよ。ちょっと馬鹿だな。」
 葉藏はそう呟きつつ、枕元に散らばってある木炭紙をいちまい拾いあげ、仰向に寝たままでそれへ落書きをはじめた。
「ご自分がよくないことをしているから、ひとのよいところがわからないんだわ。噂ですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですって。」
「そうか。いいところがある。」小菅は大喜びであった。彼等はひとの醜聞(しゅうぶん)を美徳のように考える。たのもしいと思うのである。「勲章がめかけを持ったか。いいところがあるよ。」
「ほんとうに、みなさん、罪のないことをおっしゃっては、お笑いになっていらっしゃるのに、判らないのかしら。お気になさらず、うんとおさわぎになったほうが、ようございますわ。かまいませんとも。今日一日ですものねえ。ほんとうに誰にだってお叱られになったことのない、よい育ちのかたばかりなのに。」片手を顔へあてて急に低く泣き出した。泣きながらドアをあけた。
 飛騨はひきとめて囁いた。「婦長のとこへ行ったって駄目だよ。よしたまえ。なんでもないじゃないか。」
 顔を両手で覆ったまま、二三度続けさまにうなずいて廊下へ出た。
「正義派だ。」眞野が去ってから、小菅はにやにや笑ってソファーへ座った。「泣き出しちゃった。自分の言葉に醉ってしまったんだよ。ふだんは大人くさいことを言っていても、やっぱり女だな。」
「変わってるよ。」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまわった。「はじめから僕、変わってると思っていたんだよ。おかしいなあ。泣いて飛び出そうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行ったんじゃないだろうな。」
「そんなことはないよ。」葉藏は平気なおももちを装ってそう答え、落書きした木炭紙を小菅のほうへ投げてやった。
「婦長の肖像画か。」小菅はげらげら笑いこけた。
「どれどれ。」飛騨も立ったままで木炭紙を覗きこんだ。「女怪だね。けっさくだよ。これあ。似ているのか。」
「そっくりだ。いちど院長について、この病室へも来たことがあるんだ。うまいもんだなあ。鉛筆を貸せよ。」小菅は、葉藏から鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加へた。「これへこう角を生やすのだ。いよいよ似て来たな。婦長室のドアへ貼ってやろうか。」
「そとへ散歩に出てみようよ。」葉藏はベッドから降りて背のびした。背のびしながら、こつそり呟いてみた。「ポンチ画の大家。」


 ポンチ画の大家。そろそろ僕も厭(あ)きて来た。これは通俗小説でなかろうか。ともすれば硬直したがる僕の神経に対しても、また、おそらくはおなじような諸君の神経に対しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかった一齣であったが、どうやら、これは甘すぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は気が狂ったのかしら、――諸君は、かえって僕のこんな注釈を邪魔にするだろう。作家の思いも及ばなかったところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以を大声で叫ぶだろう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらえている愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見当はずれの注釈ばかりつけている。そして、まずまず注釈だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、と突っ放す、そんな剛毅(ごうき)な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やっぱり甘ちゃんだ。そうだ。大発見をしたわい。しん底からの甘ちゃんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時(ざんじ)の憩(いこ)いをしている。ああ、もうどうでもよい。ほって置いてくれ。道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだようだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。完璧へのあこがれ。傑作へのさそい。「もうたくさんだ。奇跡の創造主(つくりぬし)。おのれ!」
 眞野は洗面所へ忍びこんだ。心ゆくまで泣こうと思った。しかし、そんなにも泣けなかったのである。洗面所の鏡を覗いて、涙を拭き、髮をなおしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛けた。
 食堂の入口ちかくのテーブルにヘ号室の大学生が、からになったスープの皿をまえに置き、ひとりくったくげに座っていた。
 眞野を見て微笑みかけた。「患者さんは、お元気のようですね。」
 眞野は立ちどまって、そのテーブルの端を固くつかまえながら答えた。
「ええ、もう罪のないことばかりおっしゃって、私たちを笑わせていらっしゃいます。」
「そんならいい。画家ですって?」
「ええ。立派な画をかきたいって、しょっちゅうおっしゃって居られますの。」言いかけて耳まで赤くした。「真面目なんですのよ。真面目でございますから、真面目でございますからお苦しいこともおこるわけね。」
「そうです。そうです。」大学生も顔をあからめつつ、心から同意した。
 大学生はちかく退院できることに決まったので、いよいよ寛大になっていたのである。
 この甘さはどうだ。諸君は、このような女を嫌いであろうか。畜生! 古めかしいと笑いたまえ。ああ、もはや憩いも、僕には照れくさくなっている。僕は、ひとりの女をさえ、注釈なしには愛することができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさえ、へまをする。


「あそこだよ。あの岩だよ。」
 葉藏は梨の木の枯枝の間からちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、昨日の雪がのこっていた。
「あそこから、はねたのだ。」葉藏は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言うのである。
 小菅は、だまっていた。ほんとうに平気で言っているのかしら、と葉藏のこころを忖度していた。葉藏も平気で言っているのではなかったが、しかしそれを不自然でなく言えるほどの技量をもっていたのである。
「かえろうか。」飛騨は、着物の裾を両手でぱっとはしよった。
 三人は、砂浜をひっかえして歩きだした。海は凪いでいた。真昼の日を受けて、白く光っていた。
 葉藏は、海へ石をひとつ抛(なげう)った。
「ほっとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミーも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだっていいのだ。それに気がついたときは、僕はあの岩の上で笑ったな。ほっとするよ。」
 小菅は、興奮をかくそうとして、やたらに貝を拾ひはじめた。
「誘惑するなよ。」飛騨はむりに笑いだした。「わるい趣味だ。」
 葉藏も笑いだした。三人の足音がさくさくと気持ちよく皆の耳へひびく。
「怒るなよ。いまのはちょっと誇張があったな。」葉藏は飛騨と肩をふれ合せながらあるいた。「けれども、これだけは、ほんとうだ。女がねえ、飛び込むまえにどんなことを囁いたか。」
 小菅は好奇心に燃えた眼をずるそうに細め、わざと二人から離れて歩いていた。
「まだ耳についている。田舍の言葉で話がしたいな、と言うのだ。女の国は南のはずれだよ。」
「いけない! 僕にはよすぎる。」
「ほんと。君、ほんとうだよ。ははん。それだけの女だ。」
 大きい漁船が砂浜にあげられてやすんでいた。そのそばに直径七八尺もあるような美事な魚籃が二つころがっていた。小菅は、その船のくろい横腹へ、拾った貝を、力いっぱいに投げつけた。
 三人は、窒息するほど気まずい思いをしていた。もし、この沈默が、もう一分間つづいたなら、彼等はいっそ気軽げに海へ身を躍らせたかも知れぬ。
 小菅がだしぬけに叫んだ。
「見ろ、見ろ。」前方の渚を指さしたのである。「イ号室とロ号室だ!」
 季節はずれの白いパラソルをさして、二人の娘がこっちへそろそろ歩いて来た。
「発見だな。」葉藏も蘇生の思いであった。
「話かけようか。」小菅は、片足あげて靴の砂をふり落し、葉藏の顔を覗きこんだ。命令一下、駈けだそうというのである。
「よせ、よせ。」飛騨は、きびしい顔をして小菅の肩をおさえた。
 パラソルは立ちどまった。しばらく何か話合っていたが、それからくるつとこっちへ背をむけて、またしずかに歩きだした。
「追いかけようか。」こんどは葉藏がはしやぎだした。飛騨のうつむいている顔をちらと見た。「よそう。」
 飛騨はわびしくてならぬ。この二人の友だちからだんだん遠のいて行くおのれのしなびた血を、いまはっきりと感じたのだ。生活からであろうか、と考えた。飛騨の生活はやや貧しかったのである。
「だけど、いいなあ。」小菅は西洋ふうに肩をすくめた。なんとかしてこの場をうまく取りつくろってやろうと努めるのである。「僕たちの散歩しているのを見て、そそられたんだよ。若いんだものな。可哀想だなあ。へんな心地になっちゃった。おや、貝をひろってるよ。僕の真似をしていやがる。」
 飛騨は思い直して微笑んだ。葉藏のわびるような瞳とぶつかった。二人ながら頬をあからめた。判っている。お互いがいたはりたい心でいっぱいなんだ。彼等は弱きをいつくしむ。
 三人は、ほの温い海風に吹かれ、遠くのパラソルを眺めつつあるいた。
 はるか療養院の白い建物のしたには、眞野が彼等の帰りを待って立っている。ひくい門柱によりかかり、まぶしそうに右手を額へかざしている。


 最後の夜に、眞野は浮かれていた。寝てからも、おのれのつつましい家族のことや、立派な祖先のことをながながと喋った。葉藏は夜のふけるとともに、むっつりして来た。やはり、眞野のほうへ背をむけて、気のない返事をしながらほかのことを思っていた。
 眞野は、やがておのれの眼の上の傷について話だしたのである。
「私が三つのとき、」なにげなく語ろうとしたらしかったが、しくじった。声が喉へひっからまる。「ランプをひっくりかえして、やけどしたんですって。ずいぶん、ひがんだものでございますのよ。小学校へあがっていたじぶんには、この傷、もっともっと大きかったんですの。学校のお友だちは私を、ほたる、ほたる。」すこしとぎれた。「そう呼ぶんです。私、そのたんびに、きっとかたきを討とうと思いましたわ。ええ、ほんとうにそう思ったわ。えらくなろうと思いましたの。」ひとりで笑いだした。「おかしいですのねえ。えらくなれるもんですか。眼鏡かけましょうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこしかくれるんじゃないかしら。」
「よせよ。かえっておかしい。」葉藏は怒ってでもいるように、だしぬけに口を挾んだ。女に愛情を感じたとき、わざとじゃけんにしてやる古風さを、彼もやはり持っているのであろう。「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もう眠ったらどうだろう。あしたは早いのだよ。」
 眞野は、だまった。あした別れてしまうのだ。おや、他人だったのだ。恥を知れ。恥を知れ。私は私なりに誇りを持とう。せきをしたり溜息ついたり、それからばたんばたんと乱暴に寝返りをうったりした。
 葉藏は素知らぬふりをしていた。なにを案じつつあるかは、言えぬ。
 僕たちはそれより、波の音や鴎の声に耳傾けよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思い起そう。自らを現実主義者と称している人は言うかも知れぬ。この四日間はポンチに満ちていたと。それならば答えよう。おのれの原稿が、編集者の机の上でおおかた土瓶敷(どびんしき)の役目をしてくれたらしく、黒い大きな焼け跡をつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖簾をくぐるのに、それでも襟元を掻き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采(ふうさい)ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送っている。そのような現実にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆっくりゆっくりなつかしもう。たった四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。たった四日の思い出の、ああ、一生涯にまさることがある。
 眞野のおだやかな寝息が聞えた。葉藏は沸きかえる思いに堪えかねた。眞野のほうへ寝がへりを打とうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい声を耳もとへささやかれた。
 やめろ! ほたるの信頼を裏切るな。


 夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまった。葉藏は今日退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れていた。それは愚作者のだらしない感傷であろう。この小説を書きながら僕は、葉藏を救いたかった。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらいたかった。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であった。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼たる気配のふたたび葉藏を、僕をしずかに襲うて来たのを覚えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり気にしすぎたようである。そのためにこの小説は下品にさえなっている。たくさんの言わでものことを述べた。しかも、もっと重要なことがらをたくさん言い落したような気がする。これはきざな言いかたであるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るようなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだろう。おそらくは一頁も読まぬうちに僕は堪えがたい自己嫌悪におののいて、巻を伏せるにきまっている。いまでさえ、僕は、まえを読みかえす気力がないのだ。ああ、作家は、おのれの姿をむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。僕は三度この言葉を繰りかえす。そして、承認を与えよう。
 僕は文学を知らぬ。もいちど始めから、やり直そうか。君、どこから手をつけていったらよいやら。
 僕こそ、渾沌と自尊心とのかたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教はった?
 書こうか。青松園の最後の朝を書こう。なるようにしかならぬのだ。
 眞野は裏山へ景色を見に葉藏を誘った。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきっと富士が見えます。」
 葉藏はまっくろい羊毛の襟巻を首に纏(まと)い、眞野は看護服の上に松葉の模様のある羽織を着込み、赤い毛糸のショールを顔がうずまるほどぐるぐる巻いて、いっしょに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。庭のすぐ北方には、赭土のたかい崖がそそり立っていて、それへせまい鉄の梯子がいつぽんかかっているのであった。眞野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼった。
 裏山には枯草が深くしげっていて、霜がいちめんにおりていた。
 眞野は両手の指先へ白い息を吐きかけて温めつつ、はしるようにして山路をのぼっていった。山路はゆるい傾斜をもってくねくねと曲っていた。葉藏も、霜を踏み踏みそのあとを追った。凍った空気へたのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりいない山。どんなことでもできるのだ。眞野にそんなわるい懸念を持たせたくなかったのである。
 窪地へ降りた。ここにも枯れた茅がしげっていた。眞野は立ちどまった。葉藏も五六歩はなれて立ちどまった。すぐわきに白いてントの小屋があるのだ。
 眞野はその小屋を指さして言った。
「これ、日光浴場。軽症の患者さんたちが、はだかでここへ集るのよ。ええ、いまでも。」
 テントにも霜がひかっていた。
「登ろう。」
 なぜとは知らず気がせくのだ。
 眞野は、また駈け出した。葉藏もつづいた。落葉松の細い並木路へさしかかった。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。
 葉藏は肩であらく息をしながら、大声で話かけた。
「君、お正月はここでするのか。」
 振りむきもせず、やはり大声で答えてよこした。
「いいえ。東京へ帰ろうと思います。」
「じゃ、僕のとこへ遊びに来たまえ。飛騨も小菅も毎日のように僕のとこへ来ているのだ。まさか牢屋でお正月を送るようなこともあるまい。きっとうまく行くだろうと思うよ。」
 まだ見ぬ検事のすがすがしい笑い顔をさえ、胸に画いていたのである。
 ここで結べたら! 古い大家はこのようなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉藏も僕も、おそらくは諸君も、このようなごまかしの慰めに、もはや厭きている。お正月も牢屋も検事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいったい、検事のことなどをはじめから気にかけていたのだろうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があろう。いささかの期待をそれにのみつないでいる。
 やうやう頂上にたどりつく。頂上は簡単に地ならしされ、十坪ほどの赭土がむきだされていた。まんなかに丸太のひくいあずまやがあり、庭石のようなものまで、あちこちに据えられていた。すべて霜をかぶっている。
「駄目。富士が見えないわ。」
 眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この辺に、くつきり見えますのよ。」
 東の曇った空を指さした。朝日はまだ出ていないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたっては澱み、澱んではまたゆるゆると流れていた。
「いや、いいよ。」
 そよ風が頬を切る。
 葉藏は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの断崖になっていて、江の島が眞下に小さく見えた。ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆら動いていた。
 そして、否、それだけのことである。

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底本:「太宰治全集2」筑摩書房
   1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「晩年」第一小説集叢書、砂子屋書房
   1936(昭和11)年6月25日
初出:「日本波漫派 第一巻第三号」
   1935(昭和10)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:赤木孝之
校正:小林繁雄
1999年7月13日公開
2016年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

一部編集、電子書籍化:春風誠
二〇一九年一二月二〇日作成


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