#962 どっちか判断に迷ったときに、どっちを選ぶ? っていう話です。
人間っていうのは、すべて関係性で生きている、っていうことであるわけだから。。。
だって、自分が自分である・とか・ない・とか、ってことは結局、自分単体では成立できず、すべて他者との関係で決まるもんねー。
だいたい、こうして自分が思考したりモノを書いたりしている言語だって、他者とコミュニケーションするツールである、ってところが基本的な性能なわけじゃん。
ってことになると、快適に生きるには、自分と他者との関係をできるだけ円滑にして行くしか無い、ってことになるよねー。
まあ、円滑にする、ってとこで、みんな苦労していると思うんだけど。。。
その関係性における苦労っていうのは、家庭レベルから町内会レベルを通って国家間レベルまで、いや、ことによったら星間レベル、銀河間レベルまで、ほーんといろいろあるよなー、って思う。
今日の聖書の言葉。
自分の快不快が他者との関係性に左右されるのであれば、他者の中の他者、他者の最高峰、キングオブ他者であるところの絶対他者、つまり「神」との関係性っていうのは、最大に考慮すべきポイントじゃないかと思う。
神と自分との関係性って、深刻な問題だなー、ってことを人生で最初に認識したのは、幼稚園でのことだった。。。
幼稚園の礼拝で神父さまがお話をするまえに、こう言ったんだ。
「ちゃーんと静かにしていないと、おしりが椅子にくっついちゃいますよ」
園児たちは水を打ったようにシーンとなった。。。かどうかは記憶に無いんだけど(笑)
でも、自分は思った。そんな強力なパワーを持った存在がいるのなら、きちんと関係を保っていないと、ヤバイことになるよな、って。。。
いや、まあ、そういう言語表現で思ったわけではなく、その時に思った感覚をいまの自分が表現すると、こういう感じになる、ってことなんだけどさ。
それから紆余曲折あってクリスチャンになったけど、神と自分の関係性を見るKPI(キー・パフォーマンス・インディケーター)は、ズバリ「御心」だよね。
神の御心に自分が沿っているか・いないか。それにより関係性が判断されることになる。
ところがねー。。。
KPIとしての神の「御心」というのが、ハッキリ見える時もあれば、ハッキリ見えない時もある、
そりゃ、もちろん、神の御心は、あなたがたが聖なる者になることです。以上。ジエン・ド。その先は無いです。っていう乱暴なまとめ方をすることも可能なんだけど *。。。
でも、毎日の生活の細かい場面において「御心」はなんだろう、っていうことを考えた時、それがいつでも自分にハッキリ見えるわけではない。
むしろ逆に、この状況における神の「御心」って、なんだろう? って迷うことが多いよね。
そいうとき先輩クリスチャンたちのカッコいいセリフを思い出すんだけど。。。
どういうのかというと。。。
もし目の前に、簡単に行ける道と、困難が待っている道があって、どっちを選ぶか「御心」の判断に迷ったら、つねに難しい方を選べ。
。。。っていうやつ。
まあ、マゾなの? って思ってしまわなくもないんだけど。。。
でもこれって、基本的にはイエスの次の言葉に合致しているよね。
あと、これにも。
いやー。サラって言ってるけど、ほんと、難しいよね。
神の「御心」がどこにあるのかわからないときは、狭い道を選べ、十字架を負う道を選べ、自分を捨てる道を選べ、って言うんだから。
こういう概念自体が難しい、と感じる。
でもね。。。
難しいってことはさ。。。それはつまり、だからそれを選べ、ってことになるよね。。。だって、難しい方を選べ、って言うわけだから。
ここで思うんだよねー。。。
もし選択肢が二つあって、難しい方の上に「これが神さまの御心です!」って大書してあったら、なーんにも考えずに自動的にそれを選んじゃう。
そうだったら、たぶんラク過ぎて、十字架を負う、ってことにならないんじゃないかと思う。
もしかしたらね、十字架が十字架であるためには、たとえ一瞬であっても「御心が見えない」っていう要素が必要なのかもしれない。
だからなのかもしれないねー。イエスが十字架の上でこう言ったのは。
あの瞬間、まさに「御心が見えない」っていう要素のゆえに、十字架がほんとの十字架・つまり・イエスにとってほんとうに従うべき神の「御心」になったのかもしれない。あくまで個人の感想です。諸説あります。
。。。ってことはさ。。。
今日の自分にとって、そこいらじゅう十字架だらけ、ってことになるじゃん!?
だって「御心が見えない」要素、満載案件ばかりだもん(苦笑)
註)
* ペトロ一 1:16
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