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明日からの緊急事態宣言に備えて、臥薪嘗胆を軽やかにやり遂げる方法を考える。

聖書を読んでると、大盤振る舞い系の聖句と、臥薪嘗胆系の聖句が、交錯して出て来る感じがする。今日の聖書の言葉なんか、「なんでもできる!」って言うんだから、カテゴリーとしては大盤振る舞い系だろうね。

今日の聖書の言葉。

イエスは言われた。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭9:23‬ ‭新共同訳‬‬

大盤振る舞い系の恵みばかり受けたいものだ。けれど、まあ、人生は、そう甘くはない。明日から始まる緊急事態宣言。四度目の忍耐の日々に入ろうとするこのタイミングには、臥薪嘗胆系の聖句がフィットするかもしれない。こういうのとか?

忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
ヤコブの手紙 5:11 新共同訳

この聖句はよりによって「ヨブの忍耐を模範にしろ」と呼びかけている。ヨブがどんな目に遭ったか想像することすら恐ろしいので、これ以上考えるのは、やめておこう。

しかし、なんか、こう、大盤振る舞い系と臥薪嘗胆系を統合してひとつにする概念がないものだろうか、と考えていたら、思いあたったんだ。「くびき」という概念に。

「くびき」をあてはめれば、うまいことひとつになるんじゃないだろうか。で、以下、言い切り調から、ですます調に、シフトチェンジする。

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キリスト者の苦しみ

マタイによる福音書 11:25-30 

クリスチャンになったら、欲しいものはなんでも手に入って、ラクな人生が送れる、というのだったら、どんなにいいでしょう? 

しかし、クリスチャンになるとは、欲望がぜんぶかなう、ということではありません。クリスチャンは、人生のロールモデルであるイエス・キリストに従って生きる結果、キリストに似た者に変えられて行く。だから、クリスチャン(キリストに従う者)と言うのですね。

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 

賢いひとは、すぐ損得計算をしてしまうかもしれません。イエスに従うことで得られる分が 20ポイント。イエスに従うことで失われる分が 80ポイント。その差マイナス 60ポイント。だから、従うのはやめよう、みたいな。しかし、イエスは言いました。

天地の主である父よ、あなたをほめたたえます
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して
幼子のような者にお示しになりました

幼子というのは、ひたすらママだっこ・パパだっこ、です。損得なんか考えず、とにかく、ママといっしょにいたい・パパといっしょにいたい、それだけで完結した世界を生きているのが幼子です。そして、クリスチャンはそういう感覚を生きることができるのです。

イエスさまが好きで仕方がない。イエスさまと一緒にいたい。イエスさまのことばっかり考えていたい。そういう幼子のようなクリスチャンになれたら、どんなに幸せでしょうか!

26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 

幼子のようなクリスチャンになることを、天の父なる神様はわたしたちに願っています。ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? 自分がイエスを信じているのは、ラクな人生のためだろうか? それとも、イエスに似た品性の人間になりたいからだろうか? 

幼い子どもがパパやママの似顔絵を描いて「ぼくもパパみたいになりたい」「ママみたいになりたい」と言ったら、とっても幸せな家庭ですね。天の父なる神も、イエスも、同じことを願っていると思います。わたしたちが「自分もイエスに似た者になりたい」と言うなら、父なる神も、イエスも、どんなに喜ぶことでしょう。それこそが、ほんとうに祝福された生き方です。 

27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 

わたしたちはイエスを信じて、変えられて、イエスのような品性になりたいと願っていますが、イエスに似た者になるのは、人間の努力でできるわけではありません。イエスのこころひとつでなるのです。

福音書をみると、いろんな病気のひとがイエスのもとに来て「イエスさま、いやしてください!」と祈りました。するとイエスが答えて「わたしのこころだ、きよくなれ!」と言いました。その瞬間、奇跡が起きて、いやされたのです。それと同じで、わたしたちがイエスのもとに行って、「イエスさま、きよめてください。イエスに似た者にわたしを変えてください!」と祈るなら、イエスは「わたしのこころだ、きよくなれ!」と言って、奇跡を行ってくれます。なによりもまず、イエスに祈り求めて行きましょう。

28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 

わたしたちは、いろんなことで疲れや悩みをおぼえます。いちばんつらいのは、精神的・霊的な悩みですね。自分はこれでクリスチャンと言えるだろうか? 罪深くて、愚かで、失敗ばかり繰り返して、ほんとうに救われているんだろうか? 死んだら天国に行けるんだろうか?

これは、スピリチュアルな悩みです。スピリチュアルな問題は、霊の問題ですから、人間の努力では解決できません。霊の問題を解決できるのは、霊の世界を統べ治めているイエス・キリストだけです。

わたしたちの問題をイエスのもとに持って行きましょう。イエスは解放をあたえてくれます。それは、イエスの十字架と復活による解放です。いったい、どういう仕組みによるかというと、ローマの信徒への手紙 6:8に言われているとおりです。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら
キリストと共に生きることにもなると信じます

わたしという人間は、イエスと共に十字架につけられて死んだ。わたしは死んだ、と聖書は言うのです。そればかりではありません。わたしという人間は、イエスに結ばれて復活した。いま、復活のイエスがあたらしいわたしを生きている、と聖書は言うのです。ガラテヤ 2:20にあるとおりです。

生きているのは、もはやわたしではありません
キリストがわたしの内に生きておられるのです

わたしは死んで、イエスが新しいわたしを生きている。すると、どういうことになるのでしょうか? わたしを悩ませていた問題、わたしの行き詰まり、わたしの立場、わたしのメンツ、わたしの失敗、わたしの過去、わたしの秘密、わたしの怒り、わたしの悲しみ。そういう「わたし」を淵源とする問題がすべてイエスと共に十字架につけられて、終わったことになるのです。人生終了、人生オワタ、です。

そして、まっさらの、あたらしい人生を、わたしたちはスタートするのです。それは、復活のイエスがあたらしいわたしを生きてくれる人生です。 

29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 

復活のイエスがわたしを生きる。これは、自分が生きているんだか、イエスが生きているんだか、どっちかよくわかりませんけれど、その状態は「くびき」にとてもよく似ています。

くびき、というのは、二頭の牛がひとつのくびきにつながれて歩調を合わせてスキを引っ張り、畑を耕していくものです。いま人生という畑において、わたしとイエスがひとつの「くびき」でつながれている。イエスがわたしの人生を一緒に生きてくれる。わたしの霊も、こころも、からだも、思いも、願いも、祈りも、悩みも、重荷も、イエスが一緒に受け止めて、生きてくれる。

くびきにつながれた牛と牛の関係は、隣り同士ですが、わたしたちとイエスとの関係はもっと接近しています。それは実に、わたしのなかにイエスが生き、イエスのなかにわたしが生きる、という関係です。これについてはイエス自身、ヨハネ 14:19-20 で言っているとおりです。

わたしが生きているので
あなたがたも生きることになる
かの日には、わたしが父の内におり
あなたがたがわたしの内におり
わたしもあなたがたの内にいることが
あなたがたに分かる

イエスがわたしのなかに生きている。わたしはイエスのなかに生きている。わたしはイエスと一緒に人生を生きている。それが「くびき」です。

30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 

イエスと一緒に生きる人生。それは、ラクな人生と言うよりは、タノシイ人生と言ったほうがいいかもしれません。前世紀の護教家で探偵小説家でもあった G.K.チェスタートンの言葉を、このメッセージの結論としましょう。

イエスは弟子たちに3つのことを約束した
まったく恐れがなくなり
ばかげたほど幸福になり
たえず試練に遭うことである

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