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センス・オブ・ワンダー、あるいは、妖精の魔法の粉

終わりなき日常を生きろ、と言われていた、あのなつかしい数か月前の世界にあっては、いかに倦怠感に打ち勝つか、というテーマがあって、生の輝きを取り戻す魔法の粉としての「センス・オブ・ワンダー」が合言葉になっていたっけ。

いま、世界を変革する歴史的大事件が、人類を全部巻き込みつつ進行中だ。冥王班ウイルスのパンデミックと戦う人類を描いた『天冥の標2 救世群』の映画撮影エキストラに、突然、全人類ごとキャスティングされた感覚。終わりなき日常といわれていた日常が、あっけなく終わった。

こうなると、もはや「センス・オブ・ワンダー」~妖精がふりまく魔法の粉~の必要は、なくなってしまうのだろうか? ディズニーランドの入場ゲートでティンカーベルの魔法の粉のサウンドが聞けなくなって久しいし。

古き良きむかしは、ゆるむ生気のネジを巻きなおす仕組みとして、日本では季節の祭りがあり、ヨーロッパでは教会暦に沿った祝祭があった。待降節、クリスマス、受難節、復活節、昇天祭、聖霊降臨祭、という節目節目の祝祭が、福音書のイエスのストーリーに沿って展開され、日常を続行することを可能にさせる超自然的な世界の構造というものを、だれもが体感することができた。

だけど、科学主義の台頭と共に、超自然の構造は、不要とみなされるようになっていった。教皇ピウス9世は誤謬表を出し、第一バチカン公会議を開催して、科学主義と対峙しようとしたが、大きな流れは止められず。バチカンの囚人となった。

第二次大戦下のドイツでのことだが、独身女性の救世軍士官イルゼ・ヒルレ(キリスト教伝道者)は、ゲシュタポ(ナチの秘密警察)に呼び出され、伝道すれば逮捕投獄するぞと脅されて、尋問官にこう問われた。「ドイツ女性であるあなたが、なぜ、イエスのおとぎばなしを信じることができるのか?」 

イルゼは答えた。

「わたしはイエスのストーリーを信じます。そんなの、おとぎばなしだと、ヒトラーユーゲント(ナチの青年団)の子どもたちは教えられていますけど、イエスのストーリーが本当であることを、子どもたちが知る日が、やがて来ますわ!」

社会ダーウィン主義の優生思想に基づいて、ドイツ人こそ全人類を指導する超人だと主張したナチの体制は、生存競争である戦争に完膚なきまでに敗北したことにより、物理的に破綻しただけでなく、理論的にも完全破綻したわけだが、戦後のヨーロッパに、イエスのストーリーが本当であることを確信する子どもたちが、大挙して出現したようには、どうも思えない。

しかし、イエスのストーリーのあたかも代替物として機能するような、非常に高度な「おとぎばなし」が、戦後の世界に広がった。「ハイファンタジー」~高度なレベルの妖精の魔法の粉~と呼ばれるそれは、緻密な世界観、社会観、言語システムで構築された、非常にリアルな別世界を描く文学形式だ。『指輪物語』『ナルニア国物語』『ゲド戦記』をはじめとする作品群がそれにあたる。

これら「ハイファンタジー」は(人類補完計画ではないけれども)かつて人々に生の輝きを取り戻させていた、あのイエスのストーリーを「補完する装置」として機能している、ということを指摘しようとするSF評論がある。「第一回SF日本評論賞」を受賞した横道仁志氏の「『鳥姫伝』評論 断絶に架かる一本の橋」(SFマガジン2006年4月号掲載)だ。横道氏はキリスト教美学の研究者。

評論の対象である『鳥姫伝』は、バリー・ヒューガートによる唐代の中国を舞台にしたSF小説。この作品を評論する方法として、横道氏はまず「オリエンタリズム」と「西洋のおとぎばなし」というグリッドを設定する。次に西洋のおとぎばなしの本質は「センス・オブ・ワンダー」(あるがままの事実に対する驚きの感覚)である、と看破する。そして、センス・オブ・ワンダーに関して19世紀末のカトリックの言論人 G.K.チェスタートンを引用しながら、「あるがままの事実に対する驚きの感覚」を西洋に醸成したのは、正統的キリスト教神学(オーソドキシー)にほかならない、と説き進めるのだ。

この論評の肝の部分を抜き書きしてみよう。

西洋の精神を宰領してきたキリスト教思想の正統は、つねに平々凡々たる倦怠の態度を弾劾してきた。正統の精神とは、あるがままの世界を真に驚嘆すべきものとして、みとめるものである。『神はおつくりになられたものを全てご覧になった。そしてそれらは、はなはだ善かった』と、アウグスティヌスは確信を持って答えるだろう。朽ちるものもまた善であると。この世界の中のすべての存在は、『存在する』というただそれだけの理由で、善である。

存在は善である。神がそれを創造したゆえに。だから、わたしたちは朝に目が覚めて日の光を浴び、スズメのさえずりを聴くだけで、もう善なる世界に驚き、興奮し、よろこぶべきだ、というわけだ。

しかし、議論はそこで止まらない。「存在を善と見る態度」は、この世界に存在する「悪の現実」によって、たやすく行く手をふさがれてしまうから。

なぜ、神が創造した世界に悪があるのか? いま生の倦怠をわたしたちから奪取しているコロナ禍などは、まさに神義論(Theodicy)の問題だ。善なる神が創造したはずの世界に、なぜ悪が許容されているのか?

「悪の問題」という難問に答えるために、正統的キリスト教神学は、人間の自由意志の問題を考え、さらに、天使的諸力の問題を考え抜かなければならなかった。しかし、そのあたりを横道氏は、さらりと触れるにとどめて、ずばり本質に踏み込んでいく。すなわち、「存在を善と見る態度」を最終的に救ったのは、「人となりたもうた神」すなわち、神の御子イエス・キリストの「受肉」であった、と言うのだ。

横道氏はこう説き進める。

福音書とは、『右のほほを打たれたら、左もさしだせ』などといった寸言をあつめた警句集ではない。それは、イエスというひとりの人間が捕らえられ、磔刑に処され、死に、そして三日の後によみがえったということが『歴史的事実』であったと証言するテキストなのだ。キリスト教徒とは、無限の存在である神の第二位格としての『御言葉』が、この有限の世界に受肉したことを信じる人々である。だからこそ、アウグスティヌスは、神の受肉という信仰から、『あらゆるものがはなはだ善い』と結論する。もはや物質や肉体は、つまり『肉』は、悪でもなければ『玉にきず』でもない。否むしろ、たとえ『玉にきず』であることを免れはできなくとも、それがより善いものを生み出す可能性を秘めているのだと信じることが出来る。神は人間として生きることによって、あるがままのこの世界を嘉されたのだから。

横道氏の論は、ここからさらに、「祝祷的世界」とでも言うべきものに、展開されて行く。

人間は、実に簡単に日常の世界からリアルな感情を見失う。いわんや、世界を新生させたキリストの受肉の意味にさえ、人間は倦怠してしまうものであるならば、それをよみがえらせる方法はただ一つ、神の子の物語に、おとぎばなしの輝きを与えることに尽きるのである。それは、おとぎばなしのセンス・オブ・ワンダーと、キリスト教のセンス・オブ・ワンダーと、ふたつながら鋭敏な感覚を持っていたG.K.チェスタートンが心に描いた物語でもあった。

キリストの受肉によって祝福されているこの世界は、本来的に、驚きと、よろこびと、いのちが溢れ出る感覚に満ちている「祝祷的世界」なのだ。

この祝祷的世界を祝祷的世界たらしめている、あのクリスマスの根源的なストーリーが使い古され、くたびれて来るたびに、ふたたびイエスのストーリーに輝きを取り戻そうとして次々に生み出されてくるのが、「西洋のおとぎばなし」と「正統的キリスト教神学」のハイブリッドとしての「ハイファンタジー」すなわち、『指輪物語』『ナルニア国物語』『ゲド戦記』『果てしのない物語』であり、さらにいまも紡ぎ出され続けている、もろもろのファンタジーとSF作品群だ、というわけだ。

横道氏の評論の結論が美しい。世界と存在に倦怠し疲労困憊しているわたしたちに、世界と存在への驚きとよろこびを取り戻させてくれる「ハイファンタジー」は、天と地の間にかかる七色の虹にほかならない、と横道氏は結んでいる。

「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」創世記 9:13

キリストの受肉によって世界を祝福する神の善意の「目に見えるしるし」としてのハイファンタジー。

終わりが無いように見えるコロナ禍にあって、指輪物語・ナルニア・ゲド・はてしない物語・グインサーガ・風の谷のナウシカ・ハリーポッター・獣の奏者・精霊の守り人を読破し、ゲームオブスローンズ・未来少年コナン・君の名は・天気の子、その他もろもろを制覇した上で、聖書の全巻を読破したら、どういう精神作用があるだろう?

きっと、日常を成り立たせている超自然的な構造は確かに世界の後背に隠れていて、自分は大きな力によってその世界の真ん中にキャスティングされている、という輝きに満ちた生の感覚を経験できるにちがいない。

今日の聖書の言葉。

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
ローマ人への手紙 1:16 口語訳


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