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男は黙って。。。女も黙って。。。神も黙って。。。っていう話です。
最近はねー。。。なんか、ずーっと黙っていることが多くなった。。。
前はね、いろんなことについて、あーでもない、こーでもない、って、結構文句ばっか言ってたんだけどさ。。。
でも、言ったところで、べつにどうにもなるわけでもないし。。。
っていう諦め感がだんだん深まって来て。。。
これって、やっぱりトシのせいだろうかね。。。
今日の聖書の言葉。
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
ルカによる福音書 6:35 新共同訳
どうして自分の心のなかに不満や怒りがこみあげて来るんだろう、っていうことを考えてみた時に。。。
やっぱり、相手を「あてにする」っていう気持ちが原因じゃないかなあ、と思う。あくまで個人の見解です。
自分はこうこうこうしてここまでやってあげたんだから、相手はそれに対して相応のことをしてくれて当然、っていう期待をどうしてもしてしまう。
でもねー。。。たとえ相手が自分の期待どおりに動いてくれないからと言って、それに対して自分が怒る権利は無いよね?
だって、どんな相手であったとしても、気持ちよく接するのが自分の責任なわけじゃん。
あなたがたは敵を愛しなさい
人に善いことをし
何も当てにしないで貸しなさい
それに対して、相手がどういうふうに反応するか、っていうのは、もう自分の責任の範囲ではないよ。
だって、別の人格なんだからさ。
とどのつまり、自分は自分、相手は相手。でも、もしお互いの心が通じ合うことがあったら、それはとっても感謝なこと。奇跡だよねー。。。
っていうふうに思わなきゃダメだな、っていう感覚が自分のなかで最近強くなっている。
そんなことを考えていたら、フレデリック・パールズの「ゲシュタルトの祈り」のフレーズが、ふわーっとアタマに浮かんできたんだ。これだ。
私は私のために生きる。
あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために
この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために
この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら
それは素晴らしいことだ。
フレデリック・パールズ
今日も人類は世界で愚行を繰り返している。これでもか、これでもか、っていうほどに。。。
そうであるのに「神」は今日も変わることなく、太陽の光、透き通った空気、どこまでも広がる海、やわらかいベッドのような土、そこに実る野菜と穀物と果実、地に満ちる生き物たち、海に満ちる生き物たち、空に満ちる生き物たちを守り、はぐくみ、養い続けている。
それだけじゃあない。神は「神」のいのちより大切な存在である独り子イエスをあたえてくれているんだ。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:16 新共同訳
そしたら、奇跡のような偶然、偶然のような奇跡が、がやって来た。
それがいったいどうしてそういうふうになっているのかは、わからないんだけど。。。
いま自分は、イエスが「神」からの贈り物であることを理解し、イエスを受け取り・味わい・楽しみ・満たされ・感謝している。
なので、それに対する応答として、自分は自分の全存在をイエスを通して神に差し出したい、って心の底から思えるようになっているんだ。
それがいったいどうしてそういうふうになっているのかは、わからないんだけど。。。
でも、これって、心と心が通じ合う「奇跡」だと思う。
これと似た奇跡が、自分と相手の間にも起きることを、どうしても期待したくなっちゃう。。。
けど、ここは、あえて期待しない。あてにしない。見返りを求めない。
自分は黙って気持ちよく相手に接することだけをひたすらにやり続ける。
今日も神が自分にそうしてくれているように。。。
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