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#996 マジョリティーとマイノリティー、どっちを選ぶ?っていう話です。

個別Aと個別Bが対立して、どうしようもない状況になったとき、われわれは普遍という概念にあこがれてしまう。。。

それは、普遍がもろもろの個別を吸収することによって、対立を収めてくれるんじゃないか、って期待するからだ。

ところがねー、こんどは普遍Aと普遍Bが対立するという事態になって。。。

いや、そもそも普遍Aと普遍Bのあいだに差異がある、って時点で、じつはどちらもほんとうの意味での「普遍」ではない気もするけれど。。。

でも、そうやって普遍同士が対立した場合には、もう個別同士どころじゃあない、世界を滅ぼしかねない熾烈な衝突を引き起こしてしまうのだ。

それはイデオロギーの衝突、文明の衝突、価値観の衝突だよね。

今日の聖書の言葉。

水が海を覆うように 大地は主の栄光の知識で満たされる。
ハバクク書 2:14 新共同訳

日本ではクリスチャンは人口の1パーセント以下のマイノリティーだ。

なので、どうしたらマイノリティーがマジョリティーになるか、ってことを自分も考えないわけではないんだけど。。。

水が海を覆うように 
大地は主の栄光の知識で満たされる

でも、じゃあ、クリスチャンがマジョリティーになったら、バラ色の世界が自動的に到来するか、って言うと、そんな簡単な話じゃあないと思う。

世界史では、マイノリティーだったクリスチャンがマジョリティーになるターニングポイントが過去にいくつかあった。

そのターニングポイントのひとつに、5世紀のアレキサンドリアで起きたヒュパティア殺害とアレキサンドリア図書館の焼失という悲劇があるんだけど。。。

その悲劇を考えると、まるで自分が犯した過ちであるかのようにハートがズキーンと痛くなる。

当時のアレキサンドリアでは異教徒とクリスチャンたちの間で紛争が多発していて、それを背景に行政長官と司教が対立していた。

で、異教徒である行政長官が懇意にしていた女性哲学者のヒュパティアが、クリスチャンたちから目の敵にされることとなり。。。

彼女は口にするのもはばかられる残酷な方法で殺されて、彼女が務めていたアレキサンドリア図書館には火が放たれた。

その結果、古代の叡智を集めた70万冊の蔵書すべてが灰燼に帰してしまったんだ。

この人類史上最悪の蛮行がおこなわれるのを、アレキサンドリア司教のキリルは黙認していたんだよね。。。

この悲劇のあと、アレキサンドリアではクリスチャンがマジョリティーになって行ったわけなんだけど。。。

そんなまでしてマジョリティーになるのが正しいとは思えないよね。

新約聖書を読むとシンプルに自分の十字架を負って進め、って勧めていることがわかる。

それに、広い門ではなく狭い門から入れ、って言ってるわけだから。。。

それはつまりマジョリティーではなくマイノリティーとして矜持をもって生きろ、ってことだよね?

第1世紀のクリスチャンって、自分たちのことをマイノリティーだって認識していたんじゃないのかなあ、って思う。まあ、数の上でも実際マイノリティーだったわけだし。。。

マイノリティーのスピリットを感じるのは、こういう箇所だ。

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
コリントの信徒への手紙二 6:8-10 新共同訳

もしこれが逆だったら、絶対イヤだよなー、って思う。

誠実でいるようでいて、人を欺いており
よく知られているようで、秘密を抱えており
生きているようで、死にかかっており
殺されてはいないが、罰せられており
喜んでいるようで、悲しんでおり
多くの人を富ませているようで、貧しく
すべてのものを所有しているようで、無一物である

。。。これって最悪じゃん。

静かにかえりみて、自分の現状はいったいどっちだろう、って考える。

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