#989 自分の計画を手放すことを学ばさせられた三年間、っていう話です。
コロナまえは、イベントをやるときは、前もって十分時間を取って周到に計画を立てて当日に臨んでいた。
だけど。。。
コロナのあとは。。。てか、まだ完全に終息してないか。なので、もとい。ウィズコロナにあっては計画はするものの、アタマのどこかで「これって実現しないんじゃないの?」っていう思いがよぎってしまう。
いや、よぎるどころじゃないよね。どうしても思ってしまう。おそらく実現しないよな、って。。。
今日の聖書の言葉。
用意周到に計画したのに、ひとつも実現しない、っていう厳しい経験をさせられたコロナの三年間。
そりゃあね、最初は心が傷ついたよ。だってさ、自分が立てた計画には、思い入れがあるわけじゃん?
マルクスの労働価値説によれば、労働することによって自分の存在が作品のなかに価値として刻印されて、それが商品になる、って言うんだから。。。
だから、自分が立てた計画には、自分の霊魂が吹き込まれている、って感じたとしても、おかしくないよね?
でも、そういう計画がお流れになって、消えていく、消えていく、どんどん消えていく。。。
なので、なんだか自分の存在そのものが水割りスープみたいに薄くなって行く感じがしたんだ。
そういうコロナの三年間を通して、あらためて教えられたのは、自分のアイデンティティの拠り所を活動や計画に置いてちゃダメだなあ、ってこと。ほんと、それをつくづく感じさせられた。
もし、イエスにおける「神」に自分のアイデンティティの拠り所を置いているのなら。。。
そしたら、自分のやってることがぜーんぶ無駄骨に終わって、みんなから裏切られて、捨てられて、十字架につけられて、死んでしまうようなことになったとしても。。。
そうなったとしても、そこから三日目にサクッと復活して、すべてを超越した輝ける存在になることができるわけだから。。。
だって、それがイエスの通ったコースであるわけだから。。。
そのイエスに自分が結ばれて生きているなら、イエスが通ったコースを自分も通って、ついには復活に至る、ってことになるよね?
コロナの三年間は、いやおうなしに全人類が十字架を負わされて、ある意味、自分の計画が死ぬ、っていう経験をみんなさせられたんじゃないかと思う。
なので、そろそろ復活の段階へ進ませてもらいたいものだ。。。そうみんな思っているに違いないけど。。。
こればっかりは、どうだろう。わからない。三年間でもお腹いっぱいだけど、これがあと七年も十年も続いたら、どうなってしまうんだろう。。。
用意したこと、準備したこと、期待したこと、夢に描いたこと、それがすべーて実現できなくなったとしても。。。
それでも前を向いて、復活を信じて、進み続けることが自分に出来るだろうか?
それがまあ、十字架を負って生きる、ってことなんだろうけどさ。。。
でも、十字架を取って一歩進めば、復活に向かって一歩近づいた、ってことは確実に言えるかもしれない。
あとどれぐらい進めばいい? なんてことは考えちゃダメ。それを考えはじめたら、やってられなくなるから。。。
だからやっぱり、自分のアイデンティティをひたすらイエスに結び合わせるしかないんだよね。
この聖句を口ずさみながら。
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