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祈る時には。。。

祈りには、いろんなスタイルがある。

自分は歩きながら祈ることが多い。

歩きながら「主の祈り」をふくらませた形で祈る。

「主の祈り」というのは、このように祈りなさい、とイエス・キリストが弟子たちに教えてくれた祈りだ。

それは「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように」という言葉で始まるんだけど、自分の場合、この「御名」のところから、祈りをひろげていく。

こんな感じだ。

天の父よ、あなたの御名はアドナイ・エロへ・イスラエル。イスラエルをかえりみてくださる神。あなたは、わたしを祝福するために、祝福の源としてアブラハムをお選びになり、祝福を受け継ぐものとしてイサク、ヤコブ、イスラエルの民をかえりみてくださり、アブラハムの子孫から救い主イエス・キリストを導き出して、全人類を祝福してくださいました。あなたの御名をあがめます。どうか今日、神の瞳を守るようにイスラエルの民を守ってください。エルサレムに平和を回復し、神殿の丘にイスラエルの民と世界のすべての民が出入りして、あなたへの賛美・祈り・とりなし・感謝を、いかなる妨げや制限も受けることなく、いつでも自由にささげることができるようにしてください。。。

こうして、アドナイ・エロへ・イスラエルという神の御名が聖とされるように祈るんだけれど、そのあと、次のように、御名に沿って祈り続けて行く。

エル・エルヨーン いと高き神
アドナイ・オーラム とこしえにいます神
アドナイ・ガードル 大いなる神
アドナイ・ハイ 生きておられる神
エル・ハッヌーン・ウェ・ラフーム 恵み深く、あわれみ深い神
アドナイ・ツァディクヌ わたしの義である神
アドナイ・カドーシュ 聖なる神
アドナイ・マッカデシュ わたしの聖である神
アドナイ・ロイ わたしをかえりみてくださる神
アドナイ・ニシ 勝利の旗である愛を高くかかげてくださる神
アドナイ・シャローム 和解してくださった神
アドナイ・シャンマー 臨在してくださる神
アドナイ・ロフェカ わたしの病を癒してくださる神
アドナイ・イルレ すべての必要を満たしてくださる神
アドナイ・イェズリー わたしを助けてくださる神

このように、御名に沿って祈っていると、あっというまに時間がたってしまう。

今日の聖書の言葉。

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
マタイによる福音書 6:7-8 新共同訳

でもね。。。くどくどと祈るな、とイエスは注意を与えている。

だから、言葉を重ねて、長時間祈ればいいのか、というと、そういうわけではないんだよね。

どうして祈るとき、言葉に言葉を重ねようとしてしまうのか。そこには、自分の祈りによって神を動かそうとする意図があるんだと思う。こうやって祈れば、神は自分の思い通りに動いてくれるに違いない、みたいな期待。。。

でも、それは、神を自分の願望の実現の「道具」として使おうとする誘惑であるわけだから、それをイエスは「それじゃ異邦人と同じだろ?」と指摘したんだと思う。

神は、全知全能だから、天地創造のはるかな前から、自分の人生のすべての日々における言葉・思い・行い・怠りを、ぜーんぶ、あらかじめ知っている、知り尽くしているわけだ。

つまり、自分の内臓も、骨も、心の奥底にある隠れた思いも、すべてを神は知っている。

自分が願う前から、神は願いを知っていて、かなえてくださる。自分が求める前から、神は求めを知っていて、与えてくださる。自分が祈る前から、神は祈りを知っていて、答えてくださる。

神は、そういう、恵み深く、あわれみ深い神なのだ。

だから、ほんとは単純に、自分を神にゆだねさえすればいいのに。。。

でも、言葉を駆使して、神を動かそうとしてしまう。

「異邦人みたいには祈るな」というイエスからの指摘が、自分の心に、ときどき刺さる。。。そういう時は、自分のやっている祈りのスタイルを中止して、ただシンプルに「主の祈り」だけを唱えるんだ。

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