見出し画像

世界を滅ぼせるほどの力を手にしてしまったら、どうする? っていう話です。

子どもの頃の遊びを思い出してみると、やっぱり戦争ごっこが圧倒的に多かったなー、と感じる。おもちゃの刀とか鉄砲とかふりまわしていたし。小学校高学年になるとプラモデルに夢中になった。もちろん、作ったのは軍艦、戦車、軍用トラック、ミニチュアの兵隊たちだ。男の子だから、そういうパワーへの「あこがれ」が遺伝子的に決定されていたのか、あるいは、そういうふうに育てられた後天的要因によるのか、あるいは、級友たちから感染した文化的ミームによるのか。それは、わからない。。。

今日の聖書の言葉。

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
詩編 18:2 新共同訳

そういうパワーへの「あこがれ」が打ち砕かれる出来事があった。中学1年ぐらいのときかなー。お茶の間で見ていたテレビに第二次大戦で死んだ人たちの遺体が延々と映し出される場面があって。。。今なら絶対にモザイクをかけると思うんだけど。。。むき出しの遺体を見て気持ちが悪くなってしまった。それからというもの、プラモデルを作る興味が半減した。だって、軍艦も、戦車も、兵隊も、その実物に期待されるパフォーマンスは、いかに「死」を生み出すか、ってことなわけだから。。。

パワーは死を生み出す。パワーが巨大であれば巨大であるほど、より凄惨な死を生み出す。そんなことを漠然と考えながら中学2年のとき手にしたのが、J.R.R.トールキンの『指輪物語』だった。映画「ロードオブザリング」の原作本だ。そこに登場するキャラクターで自分が一番好きになったのがトム・ボンバディルだった。残念ながら映画ではカットされてて出て来ないんだけどね。そのトム・ボンバディルを通してパワーについての新しいイメージが与えられたんだ。

『指輪物語』はエルフ、ドワーフ、オーク、ホビット、人間が「力の指輪」をめぐって戦うさまを描いたハイファンタジーの長編だ。堕落天使みたいなポジションにある冥王サウロンは、持てるパワーをぜんぶ注ぎ込んで魔法の指輪を作り出す。その指輪は、世界を屈服させ・支配し・滅ぼす力を持ち、それを身に着けたものをとりこにし、堕落させてしまう、恐ろしいアイテムだ。

この作品を読んで、もし目の前に、世界を支配する指輪がコロコロッと転がり込んできたら、自分はどうするだろう? ってことを考えさせられた。どうする? おもしろいことに、その考えられ得る反応を、キャラクターの類型を通して『指輪物語』は提示しているように思われた。

まず、サウロンのタイプ。力の指輪が持つパワーをあますことなく発揮して、自分が抱く邪悪な世界支配の目的を達しようとする、力の亡者だ。

次に、サールマンのタイプ。力の指輪に対する学問的探求からいつのまにかダークサイドに引き込まれ、パワーを崇拝し、善に背を向けてしまう。

それから、ゴラムのタイプ。平凡な人間だったのに、力の指輪を身に着けたことから、その魔力に捉えられ、指輪に操られる奴隷になってしまう。

そして、ガラドリエルのタイプ。指輪を良い目的に使って世界を救おうと思いながら、すんでのところで思いとどまる。パワーを良いことに使えばよい、というささやきが指輪の誘惑であることを看破したんだ。

最後に、ホビットのフロドのタイプ。ゴラムのようにすぐには指輪の奴隷にならなかったけれど、指輪の魔力によって徐々に人格を侵食されて行く。

以上のタイプのうち、はたして自分はどれだろう? ってことを考えると。。。自分は邪悪な目的を完遂できるほど徹底的に邪悪ではないし。。。かといって、指輪の誘惑をきっぱり断ち切る意志は持ち合わせていないし。。。でも、指輪に魅了されて善に背を向けるほどの覚悟は出来ない気がするし。。。だから、たぶん、ゴラムのように指輪の奴隷になってしまうんじゃないかなー、と思う。

でもね、そういう人物たちのなかで異彩を放っているのがトム・ボンバディルだ。トムも力の指輪を身に着けるんだけど、驚いたことに、指輪はトムに対してなんにも影響力を発揮できない。さらに驚くべきことに、トムは指輪に対してなんの興味も示さない。それどころか、まるで指輪をおもちゃのように自分の手のなかで扱って見せて、それからフロドに返すんだ。

どうしてトムは、そんなことができたんだろう? これは推測だけど、もしかしたらトムは「力の指輪」を凌駕する、はるかに大きなパワーを持っていたのかもしれないね。だから、指輪は彼にとって小さなおもちゃにしか感じられなかったのかもしれない(諸説あります)

世界を屈服させ・支配し・滅ぼす「力の指輪」よりも、さらに大きなパワーをトムが持っていたと仮定して。。。じゃあ、超巨大パワーの持ち主であるトムは、自分の力を何に使っていたんだろうか? 『指輪物語』の描写によれば、トムは客人となったホビットたちにお茶をつぎ、食事をもてなし、客間を飛び回り、かいがいしく世話をした。超巨大なパワーを使って小さな人たちに仕えたんだ。

その『指輪物語』を読んで数か月後に、自分はイエスと出会った。全宇宙の創造主である「神」がイエスとなって、弟子たちの前にひざまずき、彼らの汚れた足を洗った、という聖書のストーリーを読んだとき、なんだかまるでトム・ボンバディルがほんとうのほんとうにこの世界に姿を現したかのような感覚になった。その日以来、パワーに対する自分のイメージは刷新されたんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?