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旅は人生、人生は旅

コロナ禍で世界がこうむった経済的な損失が1300兆円だって。今朝のニュースが言ってた。大災忌、という言葉が、まさにふさわしい。この影響は、これから何年も続くと思う。

神様を信じ、祝福を受け、順風満帆で、ぜんぶ願い通りに行く、というのがだれしもの願いだけど、ほんとうの人生は、そうではないよね。大災忌に、期せずして遭ってしまうことがある。

教会の歴史のあゆみを見ても、大災忌の連続だ。。。

クリスチャンたちは、ローマ帝国から大迫害を受け、どんどん殺されたんだけど、ある日、突然、皇帝が「キリスト教を公認する」と宣言しちゃうという、驚天動地の出来事が起きたんだ。

皇帝は、司教たちの会議を招集し、自ら議長をつとめるんだけど、そこに集まって来た司教たちは、手がなかったり、耳が切り取られていたり、目がつぶれていたり。。。つい昨日まで行われていた大迫害の拷問を生き残った人たちだった。

その司教たちの目のまえで、つぎつぎと事は変わって行く。教会は免税され、司祭と修道士の身分は保障され、キリストの復活を祝う「主の日」(日曜日)は法定休日になり、公会堂が教会に改装され、キリスト教は、ローマ帝国の国教になる。

つい昨日までクリスチャンたちは、ローマ皇帝こそ、ヨハネの黙示録に出て来る「反キリスト」だと思ってたんだけど、考えを全く改めなければならなくなった。エウセビオスという教会史家にいたっては、ローマ皇帝こそ、地上におけるキリストの代理人、神の子キリストの似姿だ、とみなすまでになった。

キリスト教化されたローマ帝国の栄光。これこそ、黙示録の最後に出て来る「千年王国」の成就だ、と誰もが信じ、神を賛美した。

ところが。。。ゲルマン民族の大移動で、ローマ帝国は滅んでしまうんだよね。まあ、東ローマ帝国は、形を変えつつ15世紀まで生き延びたけど。

「千年王国」であるはずのローマ帝国が、野蛮人に荒らされ、解体されて行く。これは、いったい、どういうことなのか? 

アウグスティヌスは、ゲルマン系のヴァンダル人による攻城戦で陥落寸前の町に立てこもりながら、思索をかさねて、こういう答えを導きだした。教会は、地上の国を離れ、神の国を目指して、旅を続ける「旅する教会」なんだ。。。これが、不気味なヴァンダル人の咆哮を聞きながら、アウグスティヌスが出した答えだったんだけど、彼が息をひきとって間もなく、ヒッポの町は攻め落とされてしまう。

エクレシア・ヴィアトール。。。旅する教会。。。教会は地上の国を離れ、永遠の神の国に向かって、旅をする。

いったい、いくつの国が、教会の目のまえで消えて行ったことだろう。。。ブリテン島だけ見ても、福音が伝えられ、ケルト人の教会が誕生し、それがアングル人とサクソン人によって破壊され、もういちど福音を伝えて、教会が再建され、それがデーン人によって破壊され、それでも福音を伝えて、再建され、こんどはノルマン人に破壊され。。。

現れては消え、現れては消える、地上の国。だから、教会はそれらを後にして、顔を前に向け、神の国を目指して、旅を続けるしかないんだ。

この考え方は「巡礼の世界観」とでも言うべきものなので、中世においては、巡礼が一大ブームになって行く。だって、人生は旅であり、旅は人生なんだから、自分の人生をみつめるには、巡礼に出るのが一番、というわけなんだねー。

今日の聖書の言葉。

【都に上る歌】
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
詩編 121:1-2 新共同訳

中世で一番人気の巡礼路は、サンチャゴデコンポステラとエルサレムだったんだけど、両者の共通点は、山を登らなければならない、ということ。長い巡礼路の終盤、鉛の棒みたいになった足を、ひきずるようにして、山道を登って行く。さあ、立ち止まらないで、進み続けよう、あと少しで、山頂だ。山頂に立ったら、目的地を見はるかすことができるから、と巡礼者たちは、励まし合った。

詩編121編は「都に上る歌」という表題が示しているように、古代ユダヤ人がエルサレムに巡礼するとき、みんなでこれを口ずさみながら歩いたとされる歌なんだけど、そのフレーズは、旅する人生の「姿勢」を教えてくれていると思う。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。。。後ろのほう、過ぎ去った、あのこと、このことを、ふりかえってばかりいるのではなく、下のほう、地面ばっかり見ているのではなく。。。顔を上げよう。まっすぐ前を見よう。山の頂きを目指して、歩いて行こう。飛んで行くことはできないんだから、一歩ずつ踏み出すしかない。でも、一歩踏み出せば、永遠の神の国は、確実に近づいているんだ。

。。。ただ、まあ、このコロナ禍で、「旅行」に行けないのは、ツライね。


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