キャラ作りから、キャラ疲れでの、キャラ放棄
茶道のえらい先生が、究極的には「お人です」と言ってた。。。つまるところ、たいせつなのは、キャラクターね、と。
確かに、お作法は完璧で、道具も名品ばかしそろえてても、人品が卑しかったら、それは「道」では、ないよね。
むかし、魏の国で、政治をよくするには、よいキャラクターを採用すればいいんじゃね? と考えて、全国に人材発掘担当者を置き、すぐれた人品を見つけ、どしどし政治の仕事に採用したそうだ。
で、何が起こったかというと、ほーん、こういうキャラを求めているのか、と見て取って「キャラ」を演じる人が出てきた。さらに、人材発掘担当者にワイロを送って、採用してもらう人も出てきた。。。
おい、おい、これじゃあ、制度崩壊じゃん、 ということで、どうしたかというと、キャラの格付けが高い人の子弟を、政治に採用するようにしたんだって。。。よいキャラの人の子なら、よいキャラだろう、という謎理論に基づいて。。。こうして、人品が高貴な家柄が、政治の仕事を世襲するという「貴族」が誕生したんだ。
でも、よいキャラの人の子が、かならず、よいキャラになるわけは、当然ながら、無く。。。いや、むしろ、問題だらけなわけで。。。なので、こんどは、全国統一採用試験をおこなって、パスした人間に、政治の仕事をさせるようにした。どうやったか、というと「理想のキャラは、これです!」と説き示した孔子のテキストを完全に暗記してるかどうかを、テストしたんだ。
でもねー。。。それは、よいキャラの定義を、知識として持っている、というだけであって、ほんとうに自分が、そのキャラになっているかどうかは、別問題なわけじゃん。。。
今日の聖書の言葉。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
フィリピの信徒への手紙 4:8 新共同訳
日本人の場合、「自分のキャラ」というのは、まわりの空気にあわせて決まるんだと思う。
空気。。。世間ともいうけど。。。世間も、単純で単一ではなくって、いろんな種類の世間が、何層にもレイヤーを作ってるみたいな感じ。
なので、家庭のキャラ、学校のキャラ、職場のキャラ、サークルのキャラ、実名アカウントのキャラ、匿名アカウントのキャラ、と、空気の種類に応じて、たくさん「キャラ」を演じることになるんじゃないのかな。。。
ポストモダンとは、ひとりの人間が、たくさんの「キャラ」を使い分けて、それぞれのキャラが矛盾しててもオッケー、という世界なんだと思うんだけど。。。それをやるには、エネルギーもいる。
なので、疲れていくんじゃないのかな。。。
すべてまるっとお見通しの神様の前では、演じるキャラは、通用しない。仮面を、はがされちゃう。。。そのとき、自分のほんとうのキャラは、どんな姿かに、直面させられる。それが Meet Jesus Moment (人生の最大の危機のとき)だ。
真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれること、賞賛に値いすること。。。
裸の皮膚の下、骨身まで染み透った、ほんとうのキャラになるためには、「自分に絶望しないで・自分に絶望する」ことなのかな、と思う。
それは、嘘の自分をみとめて、絶望すること。。。そして、嘘の自分を悔い改め、イエス様に何度でもゆるしていただいて、少しずつでも、変えてもらうこと。。。つまり、どこまでも永遠に自分に絶望しないこと。
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