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人間だもの。グラグラしちゃう。。。

揺れない。ブレない。芯がある。筋が通っている。。。

そういうキャラクターって、あこがれるよね。

しかし、あこがれる、ってことは、自分が現状、そうなってない、ってことなわけで。。。

今日の聖書の言葉。

どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
イザヤ書 26:4 新共同訳

現状の自分は、揺れるし、ブレるし、芯がないし、グラグラしている。

はい、そうです。認めます(笑)

どういう揺れがあるか、と言うと。。。

● 永遠のいのちを確信する瞬間 ~ 死んだら何もないんじゃ?と思う瞬間

● 罪のゆるしを確信する瞬間 ~ ゆるされてないんじゃ? と思う瞬間

● 神はいると思う瞬間 ~ 神はいないんじゃ? と思う瞬間

● 聖書は神の言葉だと思う瞬間 ~ やっぱ人間が書いたんじゃ?と思う瞬間

しかも、これら4項目ですべて、というわけではなく、あとほかに12万6千5百項目ぐらいある気がする。。。

これじゃあ、揺れない、ブレない、芯がある、筋が通っている、に、あこがれるわけだよねー。

まあ、でも、考えたら、自分は単なる人間に過ぎないわけじゃん。

だから、気分や気持ちがグラグラするのは、あたりまえ。。。だよね?

。。。開き直った(笑)

仕方がないので、自分は人間に過ぎない、という現実を、まず受け入れてみることにする。

その上で、永遠に揺れないものは、この宇宙に、ただひとつしかないことを、認めることにする。

永遠に揺れない、ただひとつのもの。。。それは「神」だ。

今日の聖書の言葉で、神が「とこしえの岩」と呼ばれているゆえんだ。

どこまでも主に信頼せよ
主こそはとこしえの岩

グラグラしている自分は、グラグラしない神の上に、立つことができる。

じゃあ、どうやって、その岩の上に立つの? という疑問がでてくるわけだけど。。。

自分が岩の上に立つためには、わかりやすいアイコンが必要だ。

そして、そのアイコンこそが、イエス・キリストなのだと思う。

すると、こういうことになる。

岩の上に立つための動作として、まず

グラグラする自分を、グラグラするままに、受けいれる

次の動作として

イエスを、神の子・救い主として、受けいれる

以上!

すると、結果、こうなる。

シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 
マタイによる福音書 16:16-19 新共同訳

イエスを神の子・救い主と告白する信仰によって、永遠に揺れない安全安心があたえられる、ってことだねー。

どれぐらい安全安心か、って言うと、陰府(ヨミ)の力も対抗できないほど。

無敵じゃん!

告白した瞬間、自分は「とこしえの岩」である神の上に、もう乗っている。

告白し忘れた瞬間、とたんに自分はグラグラし始める。

それはちょうど、ペトロがそうだったみたいに。。。

ペトロは、上記の信仰告白をした直後、わずか6節あとで、もうグラグラしてる。

イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。
マタイによる福音書 16:21-23 新共同訳

自分もペトロも。。。人間だもの。。。グラグラしちゃう。。。

だからこそ、この信仰の告白を、いつも・たえず・つねに・自分の口で・こころのなかで・唱え続けて行こう。

イエスよ、あなたは神の子・救い主です

いま、この瞬間、自分はこれを、こころのなかで唱えている。岩の上に、立っている。そうしている間は。。。

ぜんぜん、グラグラしなーい (^O^)/

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