#994 変わらないといけないと思いながらも、変われない。。。だから、考え方を一新する、っていう話です。
「鎌倉殿の13人」が終わって、1月8日からスタートした「どうする家康」を見始めた。。。
日本って平和っていうイメージがあるけど、むかしは日本人同士が凄惨な殺し合いをしていたんだなー、ってあらためて思った。
鎌倉殿の場合、親兄弟や夫婦の間で誅殺・謀殺・暗殺・毒殺をやっていたわけだからねー。
人間の業の深さを感じるよね。
じゃあ、いつからそんな状態が始まったんだろう、って考えたとき。。。
人類最初の兄弟であるカインとアベルが家庭内殺人の第一号だったことを思えば、人間は最初からずーっとそんな状態だったってことなのかもしれない。
そんなふうに殺し合いをしていた日本人も、西南戦争を最後にして一致団結できるようになった。
けどね、その一致団結が今度は外国人との殺し合いへと向かって行ったわけで。。。
日本人 vs 外国人の最後の戦争が第二次世界大戦だったわけだけど、この先世界はどのように動いて行くんだろう。。。
いま、ロシアとウクライナが戦争をしているけれど、500年後の世界では「鎌倉殿の13人」をふりかえるみたいに、どうしてあの頃は殺し合いをしていたんだろう、って不思議に思えるようになるんだろうか。。。
地球人が一致団結できればいいけれど、でもその一致団結が今度は地球人 vs 宇宙人の殺し合いに変わって行ったらイヤだよね。
。。。なんてことを考えていたら、ロシアがウクライナとの交戦中にオレンジ色のUFOを撃墜したっていうニュースが流れてきて、ちょっと鳥肌が立った。
今日の聖書の言葉。
「悔い改め」っていう言葉の原語はメタノイアで、それは考え方を一新する、みたいな意味だ。
こんなことをしてたらダメだ、自分は変わらないと、っていう思いは、鎌倉時代のひとたちも戦国時代のひとたちも、みーんな一緒だったんじゃないかと思う。
だって、あたらしい自分に変わりたい、っていう願いを込めて、神仏にすがったり、寺社仏閣を寄進したり、出家したりしてたわけでしょ?
その「変わりたい」っていう祈りは、自分が犯してきた罪業が消し去られるように、っていう願いと不可分一体になっていたんだと思う。
まあねー、北条義時とか織田信長とかの罪業を考えると、そんな簡単に消し去れるものでもないだろうなあ、って思うけど。。。
そういう重大な罪業を含んだ上での過去・現在・未来のすべての人類の一切の罪業のボリュームってことを考えたら、めまいがして気が遠くなる感じがする。
さらに、いまこの瞬間もロシアとウクライナの戦争で罪業が増殖し続けているわけだし。。。
それらすべての罪業をぜーんぶ帳消しにするためには、いったいどれほどの代償が必要なんだろう、って考えさせられる。
単純に考えたら、それは不可能な話だよね。
とてもじゃないけど、その規模の罪業を消し去る代償なんて、あるはずがない。
でも、ただひとつ可能性があるとしたら、それはやっぱり「神」が代償の死を遂げることしかないんじゃないか、と自分は思う。
で、新約聖書は、この宇宙のなかでほんとうにそれが起きた、って主張するんだよね。
それが、イエスにおける「神」の死と復活だ。
問題は、そういう新約聖書の主張を「はい、そうですか」って素直に受け入れることができるのかどうか。。。
興味深いことに、新約聖書を見ると当時のイエスの弟子たちすらも、それを受け入れられなかったらしい。
証拠聖句が、これ。
イエスが人類のために代償の死を遂げる? そんなこと、あるわけないじゃん? って、当のイエスを一番間近で見てた弟子のペトロが思っちゃうわけだから。。。
それを考えると、イエスの十字架と復活を信じる、って、ほんと難しいことなんだなー、って思う。
だとすれば、やっぱり「考え方を一新する」っていう意味での悔い改めが絶対に必要だよね。
なので、悔い改めよう。。。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?