あらゆる犠牲が永遠に終了した場所。
何かを得るには、こっち側が、それに見合うだけの犠牲を払わなきゃね、という考え方。
これだけ払ったら、これだけゲットする、みたいな。これが、世の常識。
ところが、聖書は、この宇宙における、あらゆる犠牲をひとつ残らず終了させてしまうパワーを、わたしたちに提示している。
今日の聖書の言葉。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙 3:25 新共同訳
イエスは、十字架にかかり、息をひきとった。
イエスは、十字架の上で、その命を費やしたんだ。
で、ここから先が重要なんだけど。。。聖書は「イエスは神だ」と主張している。それを示す証拠聖句については、今回は省略。
聖書が言うとおり「イエスは神だ」とすると、以下のようになるんだ。
イエスは、十字架の上で、神の命を費やした。
神の命というのは、永遠で無限の価値があるものだ。だって、神だから。
じゃあ、その永遠で無限の価値あるものが、だれのために費やされたのか?
われわれのために、だ。
永遠で無限の価値あるものが費やされた結果、人類の負債は、ぜーんぶ帳消しにされた。その負債の中には、わたしやあなたがやらかした罪や失敗や黒歴史が、ひとつ残らず含まれている。
じゃあ、帳消しになったという「帳簿」は、どこに存在するのか?
その帳簿は、神の心の中に存在している。
で、その帳簿の負債欄は、完全にゼロになっている。イエスが代価を払ったことによって。
そして、帳簿上もう、いかなるマイナスも存在しないことを、神は心の底から満足している。
この、神が完全に満足している状態を、「神の義」と呼ぶ。
イエスが払った犠牲によって、「神の義」は、この宇宙で完全に実現している。イエスの犠牲は、人類のみならず、宇宙のすべての住人の負債を償って、余りあるものだ。いや、この宇宙だけではない。たとえ、幾千、幾万、幾百億の平行宇宙があろうとも、そのすべての住人の負債を償って、それでもまだ余りが出る。
なぜなら、イエスが費やした命は、永遠で無限の価値があるから。
こうして、わたしたちが住んでいる宇宙ばかりか、この宇宙の外であっても、もはや、だれも、なにも、どんな犠牲も、払う必要が無いことになる。
その結果、地球でも、火星でも、アルファケンタウリでも、三体でも、地球から最も遠い銀河EGS-zs8-1でも、さらには、この宇宙の外であっても、もし、〇〇が欲しければ、おまえが犠牲を払え、という教えがなされるならば、自分は基本、疑いの目を向けてしまうことになる。
なぜなら、あらゆる犠牲が永遠に終了した場所に、われわれはいるんだから。
それを信じるか、信じないかは、あなた次第です。
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