Send me ! よりむしろ Bend me ! っていう話です。
世の中のいろんなものに触れていると、それに対する自分の反応というのが当然のことながら出て来る。
その反応は、怒りであったり、憎しみであったり、軽蔑であったり、嫉妬であったり、優越感であったり、失望であったり、絶望であったり、いろいろだ。
べつに、いちいち反応しなくたって、いいじゃん、自分。とも思うんだけど、やっぱり、生きていることは反応すること、反応することは生きること、っていう面があるから、止められないんだよね。
そうやって反応している自分をかえりみると、ほんと、酷いありさまになっているよなー、ってつくづく思う。
世界のありさまが酷いから、それに触れる自分も酷くなって行くのだ。
今日の聖書の言葉。
イエスは最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗った。
人間の足は地面に直に接しているから、いちばん汚れやすい部位だろうなあと思う。
イエスの弟子たちはサンダル履きだったし、当時の道路はほとんど舗装されてなかったから、その汚れ具合たるや酷いものだったんじゃないだろうか。
その汚れた足を前に、イエスはエプロンを付け、床にひざまずき、洗面器に張った水にスポンジを浸して、丁寧に洗ったんだ。
困惑した弟子たちは「先生、やめてくださいっ、汚れてますからっ」って叫んだんだけど、イエスは弟子たちを制して、いいんだよ、よく見なさい、お前たちも同じようにするんだよ、って言った。
主であり、師であるわたしが
あなたがたの足を洗ったのだから
あなたがたも互いに
足を洗い合わなければならない
自分はクリスチャンなので、イエスはヒトとなった神である、ってことを信じている。理由は、神の本がそう言っているから。。。
神は神だから、永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知という属性を持つわけで、それはつまり、指ひとつ動かさずに願ったことを思いどおり実現できるパワーを持つということだ。
でも、イエスにおける「神」が10本の指でやったのは、弟子たちの汚れた足に直に触れて洗うことだった。
そして、この自分の汚れも、イエスは洗ってくれる。
どんなに酷く汚れても、繰り返し、繰り返し、イエスによって洗われてクリーンになれるんだ。それは、感謝なことだ。
問題は、その先だよね。。。
そうやってクリーンになった自分は、自分に与えられた10本の指で何をするべきか、ってことだ。
それはね。。。もうイエスから言われているので、わかっている。
わかっていることではあるんだけれど。。。
あなたがたも互いに
足を洗い合わなければならない
いまの世界のありさまに汚されて、怒り、憎しみ、軽蔑、嫉妬、優越感、失望、絶望で占められてしまった他者を、ぜーんぶ切り捨てて、自分ひとりだけ隔絶した山に閉じこもってしまうことができたら、どんなに楽だろう。。。
でも、イエスは、おまえも他者の汚れに直に触れて洗ってやれ・そして・おまえも自分の汚れを他者から洗ってもらえ、って言うんだ。
それを今日、どうやったらいいんだろう? 洗面器とスポンジで???
イエスが言った意味は、フィジカルだけでなくメンタルな次元も含んでいるから、水とスポンジ以外の方法も想定できるだろうけど。。。
でも、ひとつだけ確かなのは、フィジカルにせよメンタルにせよ、そういうことをやろうと思ったら、相手に対して自分はひざまづかなきゃならない、ってことだよね。
ひざまづくポジション。。。
そういう姿勢を自分は取れるのかどうか。そこは祈って求めるしかない。
Bend me, Jesus ! Bend me !
(イエスよ、わたしのひざを折ってください)
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