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謎と矛盾に満ちた世界で、言葉を聞く。

コロナによる自粛期間中の夏から秋は、運動のために午後8時ぐらいから小一時間ウォーキングをしていたけれど、寒くなってからすっかり止めてしまっていた。また少し暖かくなってきたので、再開しようかな。

歩いていると、電柱とかガードレールにステッカーがペタペタ貼ってあるのに気がつく。グラフィティと呼ばれるものだ。公共物に無許可にステッカーを貼るのは違法行為。だけど、なかなか面白いものがある。

お気に入り上位5つを紹介しよう。

第5位

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第4位

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第3位

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第2位

画像4

第1位

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傑作だなと思ったのは、「ステッカー貼るな!」というステッカーが貼ってあったこと。これって、存在自体の矛盾だよね(笑)

謎と矛盾に満ちた世界に生きる、わたしたち。

だから、この世界を生きるために、わたしたちは必死になって事象に名前を付け、レッテルを貼り、分類し、整理することで、乗り切ろうとする。

コロナも、そんな感じだったよね。はじめ武漢ウイルスとか新型コロナウイルスとか言ってて、それがSARS-CoV-2になったりCOVID-19になったり。得体の知れない漠然としてたものが、不思議なことに名前が決まると、少しだけ小さくなって、人類共同体という手のなかに収まってしまうんじゃないかとすら思えてしまう。

そういうレッテル貼りの行為を、哲学者の井筒俊彦は「名辞による分節化」と呼んだ。あいまい模糊とした、とらえどころのない「存在」(絶対未分節の有)が、人間によって名前を付けられる(名辞化される)ことによって、個物性を獲得して(分節化されて)、把握可能な「コト」になる、というのだ。

祖父が認知症になったとき。父の顔を見て「だれだい?」と不安な面持ちだった祖父が、ちょっとして、たぶん戦時中の北京駐在時代の記憶を引っ張り出したんだろう、父に「中国の子かい?」と言って、それから祖父は少しだけ安心したような表情になり。。。それって、認知症のために漠然としている目の前の「存在」が、事実誤認ではあるにしても「中国の子」という名辞を付けたことによって、把握可能な「コト」に変化して、それが祖父の心を安堵させたんじゃないかなあ、と想像する。

今日の聖書の言葉。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
ヨハネによる福音書 5:24 新共同訳

創世記の冒頭を読むと、神によって「存在」が無から創造されたんだけど、原初の存在は、あいまい模糊としていて、かたちが無かった。それを、神が言葉をつかって切り分けることによって、この世界になっていった様子が描かれている *¹。

それなんか読むと、神の言葉って、存在を切り裂いて個物を出来(しゅったい)せしめる形而上学的なカッターみたいな感じだよね。

その「神の言葉」がひとのかたちをとって地上に降り立ったのがイエス・キリストだ、と新約聖書は言う。なんという衝撃的な宣言だろう *²。

だから、イエスが言葉を発して対象を切り分けると、切り分けられた側は、イエスが意図したとおり、ほんとうにそうなってしまう、ということなのだ。

イエスが、自分を、じっと見ている。神の言葉であるイエスが、だ。

自分は、イエスの口から出る言葉を、固唾をのんで見守る。

だって、イエスの口から言葉が出た瞬間、その言葉によって、自分という存在は、ありようを決められてしまうんだから。

そのイエスが、ついに言葉を出す。こういう言葉だ *³。

わたしもあなたを罪に定めない
行きなさい
これからは、もう罪を犯してはならない

虚無にとらえられ、闇のなかに落ち、あいまい模糊な「存在」に退落していた自分が、このイエスの言葉を受け取った瞬間、はっきりかたちを与えられ、イエスの言葉のとおりに、なる。

そして、確信を持って、歩き始める。

自分は罪人のかしらなのに、ゆるされた
あたらしい人間として歩き始めよう
もう過去の生き方に戻ることはない
なぜなら、イエスがそう決めてくれたから

註)
*1. Cf. 創世記 1:1-2:3
*2. Cf. ヨハネによる福音書 1:1-18
*3. Cf. ヨハネによる福音書 8:11

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