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ブラウン神父が教えてくれたこと

19世紀末から20世紀初めのイギリスに、面白い文芸家がいた。

ビヤ樽のような巨体、鋭い眼光、テンプル(つる)のない鼻眼鏡、ぼさぼさ頭、ムスタッシュ(口髭)、葉巻。。。G.K.チェスタートンだ。

ジャーナリストで、批評家で、詩人で、エッセイスト、さらに、探偵小説家でもあるという彼が書いた『ブラウン神父』のシリーズに出て来る犯罪トリックの数々は、江戸川乱歩から探偵小説界の最高レベルと激賞された。

チェスタートンは、キリスト教を擁護する評論『異端者の群れ』『正統とは何か』『人間と永遠』『ローマの復活』などを書き、護教家として活躍する一方、ブラウン神父のモデルとなった実在の神父から導きを受け、イギリス国教会からカトリックに改宗してからは、カトリック保守派の闘士になっている。

その時代にカトリックに改宗するというのは、勇気の要ることだった。なぜって、ヨーロッパでは、カトリックが政治や教育から追い出され、教皇は「バチカンの囚人」として小さな領域に閉じ込められ、力を失ってた時だったから。。。そういう状況を大逆転させたのが、第二バチカン公会議なんだけど、だから、いかにスゴイ公会議だったか、わかるよね。

チェスタートンは、人間の精神における「驚き」の感覚を、とっても重視した。彼に言わせると、異端も異教も無神論も世俗主義も「退屈」であり、退屈な人生に「驚き」の感覚を取り戻させることができるのは、正統的キリスト教だけだ、と言うのだ。。。だけだ、って。。。なんか、喧嘩する気、満々だよね。。。

「驚き」を重視する彼の評論は、人をあっと驚かせるアクロバティックな論理、ユーモア、逆説が満ちていた。それはまるで、筋肉頭脳格闘技というか、頭脳カンフーみたいな感じだ。で、その流儀を20世紀中葉に受け継いで発展させたのが C.S.ルイスなんじゃないかな、と自分は思っている。。。なんだろう。。。イップ・マンを継承して発展させたブルース・リーみたいな。。。

C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』って、だから、読んでると、どことなく、チェスタートンの雰囲気を感じるんだよね。

今日の聖書の言葉。

人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書 6:8 新共同訳

そのチェスタートンの『ブラウン神父』シリーズに出て来る、ある殺人事件なんだけど。。。とっても敬虔なクリスチャンが、毎朝、高い塔のてっぺんにこもり、祈りを捧げていた。ある日、塔の下で、頭を鈍器で撃たれた死体が見つかる。そして、誰が犯人かをブラウン神父は見破る。

犯人は誰かというと、塔の上のクリスチャンだったんだ。彼は、毎朝の祈りの中で、魂を高く引き上げられ、神のみもとに近づいていた。そうして、塔から下界を見ると、不信仰な弟がバカげた振る舞いをしているのが目に入った。兄である彼は、義憤に駆られ、塔から鈍器を投げて凶行に及んだ、というわけなんだ。。。

これはねー、正しいことの追求が人を凶行に駆り立て、その結果、かえって正しくなくなってしまう、というパラドックスを、探偵小説という形で描いていると思う *。

正義を行え、と聖書は言ってるけれど、正義の追求だけをやってると、えてして、結果は大被害をもたらすよね。

じゃあ、正義は追求しないで、ひたすら慈しみ愛することだけ、やっていればいいか、というと、「いいよ、いいよ、大丈夫だよ、平気だから」とだけ言って、ぜーんぶ許容していたら、かえって相手がどんどんダメになって行く、という場合もある。

逆に、自分はこんなに慈しみ愛しているんだ、とマウントを取ってくるような、おかしなプライドというのも、あるよね。愛して愛して、愛し抜いたゆえの高慢、みたいな。。。

そうはならないように、謙遜にへりくだればいいんだけど。。。でも、正義も抜きにして、愛も抜きにして、ただひたすら謙遜していたら、それはなんだか、自己卑下を通り抜けて、無力、無気力、不健全になってしまう。

今日の聖書が言っているのは、だから、バランスが大切だ、ということなんだと思う。

勇気をもって大胆に正義を追求しながら、同時に、人を慈しみ愛し、そして、謙遜にへりくだること。。。ほんとうに、このバランス感覚が必要だってことを、痛切に感じる。

なぜなら、自分はその点で、ほんとうにバランスを失ってたよなあ、と思わされるからだ。

註)
* G.K.チェスタートン『ブラウン神父の童心』所収「神の鉄槌」1910年

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