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自力vs他力? 自力x他力? 自力⊂他力?

先週書いた note を読み返してみると、人間はどうしたら救われるのか、という論点について、自分の考えには振幅があるなー、と思わされた。

そのブレって、かんたんに言えば、自力か他力か、っていう二項のあいだでの行ったり来たりなんだけど。。。

で、どんな具合かと言うと。。。

このところ「意識」をめぐることを書いてたんだ。

下の記事を書いたときの気分は。。。

自分の意識なんて関係ない、意識する必要なんてない、意識なんか忘れてイエスさまに頼れば救われる、他力よ、他力、という感じ。

ところがその3日後に書いた記事では。。。

自分の意識を構成するパケットをポジティブなものに取り換えるために、ポジティブな宣言をやって行こう! 自力よ、自力、みたいになっちゃってる。

で、きのう書いた記事では。。。

自分の意識をまったく神にゆだねるという、他力かなー、と思わせる所作を、いや、全集中の呼吸でやらなきゃいかん、みたいに、もう完全に他力が自力に乗っ取っられてる状態に。

このブレがたった4日間で起きている。

なんという思考の一貫性の無さ。。。

まあ、ポストモダンなクリスチャンだから、矛盾をあるがままに受け入れて生きて行くしかないねー、と、とぼけるしかないかな。。。

今日の聖書の言葉

あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
フィリピの信徒への手紙 1:5 新共同訳

新約聖書を読んでいると、どうもそれ自体にブレがあるように感じることがあるんだ。

たとえば、パウロはフィリピの信徒への手紙 2:12 で、こう言ってる。

恐れおののきつつ
自分の救いを達成するように努めなさい

これって完全に自力じゃん!って思っちゃう。

だって、自分の救いを達成するために努力しろ、って言うんだから。

ところが、今日の聖書の言葉になってる同じフィリピへの信徒への手紙 1:5 で、パウロはこう言うのだ。

あなたがたの中で善い業を始められた方が
キリスト・イエスの日までに
その業を成し遂げてくださると
わたしは確信しています

ここでは、人間の救いを創始し・遂行し・完成させる行為の主体は、どこまでも「神」である、と明言している。

これだと、やっぱり、他力しかない。しかも、絶対他力だよねー。

だって、人間の救いをスタートするのも神。人間の救いを遂行するのも神。人間の救いを完成するのも神、なんだから。

もう100パーセント神しかないわけで。

こうなると、自力か他力か、という二項図式で問いを立てるのは、意味がなくなっちゃうよなー、と思う。

100パーセント他力、という観点に立つなら。。。というか、人間を救えるのは神しかないわけだから、どう考えたって、100パーセント他力に立つしかないんだけど。。。

そうなると、故小西芳之助先生が喝破したように、救われるには、自分の行いは必要ない、いや、自分の信仰すら必要ない、というところまで行くしかないのかもしれない。

そうは言っても、じゃあ、小西先生はクリスチャン生活における「行い」の要素を完全否定したのか、というと、けっしてそんなことはなかった。

むしろ、神に救われた人間は、救いの発露として、他者を愛するようになり、その愛という文脈のなかに「行い」を位置づけようとしたんだ。

なので、救われるのは100パーセント他力だけど、救われると、救われた結果としての「行い」が出来(しゅったい)する、というふうに観ることになるわけだ。

そうすると、「アーメン、ハレルヤ、感謝します!」という宣言をやる、あるいは、「イエスさま!」という称名をやる、というのは、外形的には「行い」に見えるから、やればやるほど自力っぽく見えるんだけど、じつは他力の結果として出て来る自力なわけだから、もはや、自力ではない、ってことになる。

うーん。。。不思議だ。。。

なんか、100パーセント他力による救いの果実があって、そっから滴り落ちる甘露みたいなものなのかもしれないねー。

アーメン、ハレルヤ、感謝します!

イエスさま!

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