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理屈に優り、体験に優るもの、それは。。。

どんな理屈よりも、リアルな体験は、力を持っていると思う。

食べログで美味しそうな店を研究しても、実際に店に行って心ゆくまで料理を味わうのとでは、ぜーんぜん違う。行こうぜ、Go To Eat キャンペーン!

というわけで。。。理屈 vs 体験 というバトルは、どんな世界にも、あると思う。

クリスチャンの世界でも、そうだ。

クリスチャンの場合、大きな需要は、神の言葉である聖書を正しく解釈して、わかりやすく人々に伝える、という説教者や伝道者の養成だ。

なので、クリスチャンたちは歴史的に、説教者の養成にリソースをつぎ込んできた。いま超有名大学になっている、オックスフォードもケンブリッジも、ハーバードもイェールもプリンストンも、はじまりは小さな説教者養成所だった。

だけど、学究に命をかけるクリスチャンたちの熱心さゆえに、学問のレベルは時代につれてどんどんアップし、その結果、民衆からかけ離れた「象牙の塔」になってしまった。

こうして民衆は、大学で研鑽した牧師の難解な説教を聞かされるだけ、という受動的な信仰生活を強いられることになった。

そういうタイミングで、かならず 理屈 vs 体験 のバトルが起きるんだよね。

典型的な感じは、こうだ。。。

ある日、ふつうの農家のおかみさんが「私、神様から啓示を受けたました!」と宣言して、聖書の説きあかしを語り始めるんだ。

聖書の原語であるヘブル語もギリシャ語も知らないし、神学も教義学も学んだことないし、人前に立って話す訓練も受けてない。でも、なんだかわからないんだけど、自分は聖霊に満たされて、神と自分が直接つながっている、という確信があるから、語らずにはいられない。もうね、縛ったって、黙らせられないよ、みたいな勢いで。。。

で、それは、免許証を持たずに公道でトラックを爆走させるようなものだから、当然、牧師は職責として、勝手な説教活動を制止しようと努める。

ところが、彼女は牧師の制止を振り払って、流暢に古代ギリシャ語で神への賛美の祈りをささげ始めるんだ。

こういう現象を「異言」と言う。クリスチャンが聖霊に満たされると、その結果として、自分の母語ではなく、また、過去に学習したこともない、外国の言葉や天使の言葉を、突然、語り出す、という現象が、新約聖書に記録されている。キリスト教の歴史で何度もそれは起きているし、いまも、異言を語るというクリスチャンがいる。カテゴリー的には超常現象だ。だって、理屈じゃ、説明できないもん。。。

異言を聞いて、びっくりした牧師は言う。「か、かんぺきなギリシャ語じゃないか? あなた、それを、どこで学んだんだ?」 すると、おかみさんは答えるんだ。「私、学校に行ったことがないので、自分がなにを言っているか、ちっともわからないんですけど、こうやって聖霊さまが異言を語らせてくださるので、感謝です!」

そして、彼女に感化されたひとたちも、異言を語ったり、説教しだしたりして、「象牙の塔」を焼き尽くすかの勢いで、体験は理屈にまさる、と主張するムーブメントが広がって行くんだ。

今日の聖書の言葉。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
コリントの信徒への手紙一 13:1 新共同訳

ところがねー。。。やがて、だんだん、おかしな具合になって来る。。。

体験は理屈にまさる、という主張でつき進んで行くと、次の段階として、じゃあ、だれがいちばん刺激的な体験を持っているか、というアピール合戦、マウント取り合戦に変化してしまうんことが、あるんだ。。。あたしゃ、異言で1時間祈れますわよ、いいえ、3時間祈れますわよ。。。

実は、この手の変質は、もう2000年前の初代教会から存在してた。今日の聖書の言葉は、そういうマウント取り合戦をやってたクリスチャンに向けて、パウロが皮肉を込めて書いたものだ。

1時間以上も異言で祈れるんですか。。。結構なことです。。。でも、やってる動機が、マウント取りだったら、ナンセンスじゃないですか? だったら、相手に理解できる言葉で、ひとことでも、やさしい言葉かけをするほうが、まさってますよ。。。

パウロは、理屈にまさるのは体験で、体験にまさるのは愛だ、と説いた。結局、最後に重要なのは、愛。愛だろ、愛! ということ。

誤解の無いように言っておくと、パウロは異言を敵視してたわけではない。だって、別の個所で、おれも異言で祈ってます、と書いているからだ *。

なので、今日の聖書の「異言」のところは、空欄にしておいて、そこに、マウント取りに使われ得る、あらゆるものをぶっ込んで、そうじゃないだろ、愛だろ、愛、と言うために、使ったらいいんじゃないかな。。。

たとえ、「...............」であろうとも、...............をしようとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

註)
* Cf. コリント一 14:18

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