舌について考えるペンテコステの前日。
言葉って、もろ刃の剣、って言われる。
たしかにねー、聞いてて心地の良い言葉もある。
言葉で傷つけられて立ち上がれないほどダメージを受けることもあるよね。
どうしてなんだろう。。。
言葉には、その叙述の構造上、あいまいなものごとを切り分けて、切り分けることによって、個別化し・具体化する、という機能が備わっている。
その、切り分け、が原因なのかもしれない。
ちょっと、実験してみるか!
【なにかが、ある】
これだと、ここで指示されているものは曖昧模糊としていて、いったいなんなのか、わからないよね。
これは、言ってみれば「ある」の原初的状態だ。
原初状態なもんだから、まだ「それ」にはなれていない。
そこで、「ある」を「それ」するために、叙述を開始していこう。
【ひとりのひとが、いる】
こう叙述したことで、「ある」は、それ以外のすべての被造物から切り離されることになるねー。さようなら、太陽、山、川、海、ゾウ、猫、金魚、その他もろもろの、ある、たちよ。。。
これでめでたく「ある」は「それ」になり始めた。
でも、まだまだ叙述して行くよ!
【ひとりの女性が、いる】
こうして「それ」は、すべての男性から切り離された。男性諸氏、残念でした。。。
【緑色の服を着た女性がいる】
「それ」は、緑色以外の服を着たすべての女性からも切り離された。白、赤、黒、茶色、いろんな色の服を着た女性のみなさん、ご退場ください。。。
【緑色の服を着た女性が聖書を読んで神に祈っている】
いまや「それ」は、神を信じない無神論者や、聖書以外の聖典を読んで祈っているひとたちからも切り離されてしまう。
以上、ちょっとした実験だったけど。。。
このように、言葉で叙述することによって、原初的な「ある」が、どんど個別化され、具体化され、特定の「それ」になって行くんだ。
その叙述の過程においては、「それ」と、それでないもの、との間に、膨大な量の切り分けが発生することになる。
つまり、言葉は文字通り、ほんとうに剣として物事を切り分けているんだ。
哲学者の井筒俊彦によれば、人間は言葉による切り分け。。。分節化の機能。。。によって、世界を眼前に生成させてる、っていうことになる。
今日の聖書の言葉。
死も生も舌の力に支配される。 舌を愛する者はその実りを食らう。
箴言 18:21 新共同訳
生と死という、人間にとっていちばんおおきなくくりさえ、やっぱり、言葉によって切り分けられて、生成しているんだよね。
生死すら生み出す言葉。スゴイ。。。
そういう切り分けの機能が言葉であるから、やっぱり、言葉を使う時は慎重でないといけないよなー、と思わされる。
だって、自分が誰かについて何か発言する、ということは、イコール、自分の言葉でもって、対象である相手を切り分けることになるわけだから。
逆に、甘い言葉、やさしい言葉、っていうのは、切り分け要素が薄いか、あるいは、無いのかもしれないねー。
だいじょうぶだよ! 平気だよ! 心配しないで! わかっているから! そのままでいいんだよ! ありのままでいいんだよ! ありがとう!
こういう言葉って、なんか普遍性はあるけど、ずーっと聞いてると、ありがたみが薄れて来る感じがする。。。
なんでだろうね。。。きっと、切り分け要素が無いから、汎用性は高いけれど、それがために個別性が失われてて、だから、いくら言われても、心に刺さらないのかもしれないねー。。。
やっぱり、言葉って、心に刺さらないとだめなのか。
意味ある励ましの言葉を発するには、どうしても、個別性を生成する切り分け要素が必要になってくる。
〇〇さんの☐☐というところ、とっても△△です。なので、わたし、〇〇さんを応援していますよー、みたいな。
でもねー。そうすることで、言葉の事故も、当然、発生しやすくなる。
だって、言葉で心を刺して、切り分けるわけだから。
自分の場合、事故ばっか。だからもう、何にも言わないでおこう、と思うぐらいだよ。。。
わたしは言いました。わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。
詩編 39:2 新共同訳
善意で発しても、場合によっては相手を傷つけてしまうこともある言葉。
そういう言葉を悪意をもって使えば、人生も世界も破壊されてしまう。
舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。 御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
ヤコブの手紙 3:5 新共同訳
相手を傷つけているという自覚なしに言葉を使う、というレベルを超えて、確実に相手にダメージを与えるために最も効果的に言葉を使う、というレベルにまで行ってしまってるひともいるよね。
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
ヤコブの手紙 3:6 新共同訳
だからこそ、人類の救済のためには、イエス・キリストが十字架にかかって復活するだけではなく、聖霊がくだって人間の「舌」に直接に触れる必要があったのかもしれない。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒言行録 2:3 新共同訳
明日はペンテコステの日曜日。教会のカレンダーでは聖霊降臨日とも言われる。まさに、聖霊がくだって人間の「舌」に触れ、聖化した、という事件が起きた記念日だ。
聖化された「舌」を与えられた人類として、それにふさわしく、あたえられた、もろ刃の剣を、適切に取り扱って行かなきゃいけないよなー、と反省させられる。
それにしても、汎用性と個別性を保ちながら、相手の心をちゃんと刺し、かつ、傷つけることをしないで、励ましをあたえるような言葉。そういう言葉を語るのって、ハードルが高いよねー。
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙 2:11 新共同訳
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?