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最後の最後に逃げ込める場所は? っていう話です。

何かあったら逃げ込める場所があれば、安心だよね。人類は長い戦いの歴史のなかで最後の避難場所としての「塔」を作ってきた。戦いのノウハウの集大成である戦闘教義の下位項目である築城術で塔の作り方が述べられている。

基本、城をかまえてその構内に塔を設けるわけだけど、城は砦とか要塞とか基地とも呼ばれて、戦いの上で非常に重要な拠点だ。

戦いには、物資を切れ目なく補給する兵站が不可欠だし、それと合わせて、兵隊を訓練する練兵場や、前線で疲弊した兵隊を退かせて回復させる休養地も必要だ。それら兵站・練兵場・休養地の機能を兼ね備えていて、かつ、防御のための城壁を四周に巡らせたものが「城」だ。

城は、敵国に攻め込まれた時に住民を城内に避難させて保護する役目も持っている。で、城壁すら破られたとき、最後の最後にみんなが逃げ込む場所が「塔」なんだ。

大砲や爆撃が発達した第一次大戦以降は、塔を簡単に破壊できるようになってしまったから、現代の築城術で塔の意義はほとんどなくなってしまっているけれど、古代から近世までは、塔に逃げ込まれてしまったら、ほとんど手の出しようがなかった。

だから昔のひとたちは、塔に逃げ込めば絶対安全、というイメージを持っていたんだろうねー。

今日の聖書の言葉。

主の御名は力の塔。 神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。
箴言 18:10 新共同訳

塔に逃げ込めば絶対安全、というイメージは、人間のたゆまぬ創意工夫による新兵器の開発によって、崩されて、崩されて、崩されて、いまに至っている。

だいたい、核兵器みたいなものを出されて来たら、なにをどうしたって避難のしようがないじゃん。いくら塔や、塔の代替物を作ったって、意味がない。。。

そういう意味で現代人っていうのは、ここに逃げ込めば絶対安全、という感覚をなかなか持ちにくい状態にあるのかもしれないなー、と思う。

現代人である自分は、敵に攻め込まれたら、最後の最後の避難場所として、いったいどこに逃げればいいんだろう。そこが決まらないと、安心安全を実感するっていうのは、なかなか難しいよね。。。

しかし、そういう場所は、どう考えたって思い浮かばないので、もはや、物理的な構造物としての避難場所ではなく、スピリチュアルな構造物としての避難場所を求めて行くしかないんじゃないかと思っている。

自分の場合、そのスピリチュアルな避難場所というのは、イエスだ。

べつに敵に攻め込まれていなくても、生きていると、どこかへ逃げ出したくなる気持ちになることがある。何度も、何度も。。。

そういう時、自分はこのゴスペルを、そっと、うめくように、歌うんだ。するとね、なんだか気分が楽になる。

それはまるで、高い砦の塔のなかにある高速エレベーターで、すーっと上にのぼっていくような感覚なんだ。

 イエスのそばへ のがれてゆこう
 ひとの世界を はなれてゆこう

 終わりの日に 罪人おののく
 ラッパは 鳴り響くよ
 主のもとへ ゆこう

 イエスのそばへ のがれてゆこう
 ひとの世界を はなれてゆこう

 主は呼びたもう 雷のように
 ラッパは 鳴り響くよ
 主のもとへ ゆこう

 イエスのそばへ のがれてゆこう
 ひとの世界を はなれてゆこう

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