見出し画像

この世が与える試練の炎が、同時に、神の聖化の光でもある、なんて。。。でも、考えてみれば、ありか。。。っていう話です。

自分はプロテスタントなので、基本、聖書しか読まないんだけど。。。

まあ、でも、ずーっと聖書ばっか読んでるわけにもいかないので。。。

なので、参考程度に、ほかの本もいろいろ読んだりする。。。

じゃあ、どの程度まで読むかというと、それはねー。。。

やっぱり、読むべき本は、際限なくあるわけで。。。

かと言って、立花隆の20万冊、松岡正剛の5万冊、なんて蔵書を持つわけにも行かず。。。

だって、資金もスペースも、ぜんぜんないから。。。

そうすると、タイミングとインスピレーションで読む本が決まって来る。

来た、見た、勝った、じゃなく、来た、見た、買った、みたいな。

たまたま目にして、ピピってインスピレーションが来て、財布の中身が合致した場合に、その本が、自分のところにやって来る。

そういうようなわけで、いま、自分の手元にあるのが、ハリストス正教会の『主日奉事式』だ。

今朝、これを読んでたら、すごい祈りの言葉があって。。。

すごい、というのは、プロテスタントの思考からは出て来ないだろうなあ、という表現になっているから。

これ。

昔 敬虔なる三人の少者しょうしゃをハルデイのほのおに涼しうせし如く、我等をも神性しんせいの明るき火に輝かし給え、吾が先祖の神や、なんじは崇め讃めらると呼べばなり。

ニコライ主教が訳した明治時代の文体のままなので、ちょっと見、難解だけど。。。

現代語に訳すと、こんな感じだろうか。

古代において、信心深い三人の若者たちがカルデヤの炎の中で涼しく過ごしたように、私たちをも神性の明るい炎で輝かせてください。私たちの先祖の神よ、あなたは崇められ、敬われるべきお方です。

このお祈りの背景には、こういう故事がある。

むかし、イスラエル・ユダヤ人がバビロンに捕囚されたときのこと。バビロンのネブカドネツァル王は、三人の若者を宮廷に召し抱えた。王は彼らに、金の像を拝むよう命じたんだけど、三人は聖書の神を信じていたので、王の命令を拒否した。。。

激怒した王は、溶鉱炉に三人を投げ込んで処刑しようとした。ところが、三人は燃え盛る炎のなかで、ぜんぜん平気な様子でいる。しかも驚いたことに、四人いる!? 三人だったはずなのにっ!?!?

王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
ダニエル書 3:25 新共同訳

上記の故事を引照しつつ、正教会は、「自分たちもそうなりますように!」って祈り求めているわけなんだねー。

今日の聖書の言葉。

神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
ヨハネの手紙一 1:7 新共同訳

神が光である、というのは、わかる。

その光のなかを、自分も歩むべきだ、というのも、わかる。

そして、なんとなく、光のなかを歩むって、自分が死んだあと、完全に神性の光にあずかって、天国で光り輝くようになる、ってことなのかなー、と、漠然としたイメージを持っていた。

でも、まさか、光のなかを歩くっていうのが、あのカルデヤの燃え盛る炉のなかを歩くことだ、って発想は、なかったよ。。。

ありがとう、正教会。。。

この解釈なら、自分にとってのカルデヤは、この世で生きているあいだに受ける、あらゆる試練だ、ということになる。

で、試練に直面して、あの三人の若者みたく、信仰の背骨を通した結果、紅蓮の炎に投げ込まれるような感覚を持つことが、たまーに、ある。。。めったに、ないけど。。。あるときは、ある。。。

今までは、その炎は、この世が自分に向ける敵意・悪意だとばっかり思ってたんだけど。。。

でも、その炎は、同時に、神の光でもあり、その光のなかで、自分は自由に歩き回ることができて、しかも、あの四人目の人物。。。神の子イエス・キリストとの交わりを持つことができて。。。その結果、ほんとうに自分は神の光にあずかって、天国ではなく、この世で、明るく輝くことができるようになる、っていう。。。

そんなことは、考えたこともなかった。

なので、考えを改めた。

それにしても、ね。この世が与える試練の炎が、同時に、神の聖化の光でもある、なんて。。。

まあ、考えてみれば、神は十字架という処刑の道具を転用して、人類の救済の道具に変えたわけだから。。。

だから、神からすれば、それは神の常石ってことになるんだろうけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?