叫び、うめき、復活する。一緒に。
叫びながら生まれ、うめきながら死んでいく。。。
誕生と臨終。。。それをつなぐ間。。。それが人生。。。
っていう人生のまとめ方があると思う。
自分視点だけで見ると、そうなっちゃう。
でも、他者視点を加えたら、こうも言えるんじゃないかな。
叫びながら生まれて来たあなたを抱き上げた、わたしがいたよ。。。
息を引き取るあなたの手を握り続けていた、わたしがいたよ。。。
でもまあ、他者視点を想像してみるって、難しいことだよね。
自分は一人で生きているわけではない、って、頭では、わかってて。。。
だから、自分視点だけで思い詰めるのは間違い、って、理解しているはず。。。
なんだけど。。。
やっぱり、叫んでいる瞬間、うめいている瞬間は、他者視点への想像力は回らない。。。
今日の聖書の言葉。
主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。
詩編 34:18 新共同訳
他者にもいろいろあるけれど。。。
他者のなかでも他者の最高峰である絶対他者。それが「神」だ。
神が発信する「聖書」は、もうね、他者視点の集大成みたいな感じ。
その聖書を、ひとことでまとめると。。。
まあ、そんなことは不可能ではあるんだけど。。。
蛮勇をふるって、ひとことでまとめるとしたら、イザヤ書 65:1 かなあ、と思う。
わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる
ここにいると言った
わたしはここにいるよ、そばにいるよ、助けるから、絶対見捨てないから、って神が言う。。。
言い続けている。。。
それをぐーんとひきのばしたのが聖書だ。。。というイメージだ。
神が「わたしはいつも一緒にいるよ!」と言い続けていてくれる。。。
言ってるだけじゃなく、ほんとに、そうしてくれてるわけだけど。。。
でも、叫んでいる最中、うめいている最中は、完全に自分視点のモードに入っちゃってる。
だから、視界に神が入ってこない。
「わたしはここにいる」と言われても、ピンとこないのだ。
これを、他者視点。。。神視点から言えば。。。
叫んでいるあなたを抱き上げても、あなたは叫び続けている。。。
うめいているあなたの手を握っても、あなたはうめき続けている。。。
これって、切ないよね。。。
この切なさは、新約聖書のギリシャ語原典の表現で言うと、スプラングニゾマイ(はらわたが引きちぎれるような感覚)だろうなあ、と思う。
だから、神は、究極の手段を取ることにしたんじゃないだろうか。
それは。。。
「わたしはここにいる」を突き抜けた、「わたしはあなたのなかにいる」の実現。。。
そして、それすら突き抜けた、「あなたはわたし」「わたしはあなた」の実現だ。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書 27:46 新共同訳
イエスは神だ、と自分は思っている。
で、その線で行くなら、こういうことになる。
神は十字架につけられ、神が神に見捨てられた。最後の息のなか、神は神に叫んだ。そして、神はうめきながら、死んだ。
その線の先には、こういう世界が開けているんだと思う。
自分は叫んでいる。それは、神の叫びでもある。
自分はうめいている。それは、神のうめきでもある。
なぜなら、神はイエスにおいて自分と一体となってくれているから。
しかし。。。
それがどうした、って言われたら、返す言葉もないんだけど、さ。
でも。。。
自分にとって、それは慰めだ。
だって、神が自分の叫びを叫び、神が自分のうめきをうめいてくれるわけだから。
それだけじゃない。
叫びとうめきにおいて神と「一体」である自分は、神の復活においても「一体」なんだ。
証拠聖句が、これ。コリントの信徒への手紙二 4:14 だ。
主イエスを復活させた神が
イエスと共に
わたしたちをも復活させ
あなたがたと一緒に
御前に立たせてくださると
わたしたちは知っています
なので、最初にもどって、もっかい人生をまとめなおすとすると。。。
わたしはあなたと一緒に叫び、わたしはあなたと一緒にうめき、わたしはあなたと一緒に復活する。。。
ってことになる。
この「わたし」と「あなた」は二重入れ子の状態になっている *¹。
だから、「わたし」と「あなた」のどっちに神を代入してもいいし、どっちに自分を代入してもいいんだ。
それはつまり、神と自分が永遠に不可分一体ということだ。
主に結び付く者は
主と一つの霊となるのです *²
註)
*1. Cf. ヨハネ 14:20
*2. Cf. コリント一 6:17
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